第 26号
2004.10.04
発 行

From the People of Japan − 顔の見える国際貢献を目指して

皆さんは「顔の見える国際貢献」という言葉をご存知でしょうか?日本政府の外交方針を伝えるときに必ず使われるようになったこの言葉は、この国の外交を変えるきっかけとなりました。今週号は、私が提唱した日本の新しい外交の基本スタイル「顔の見える国際貢献」についてお話しさせていただきます。

コソボから帰国してすぐに小渕総理(当時)に報告。
日本の国際貢献の現状を訴えた。(首相官邸にて。1999.5.10)

私が国会議員として積極的に外交に取り組むようになったきっかけは、1998年に激化した東欧・旧ユーゴスラビアのコソボ紛争とその難民問題でした。国連からの要請を受け、わが国政府は2億ドル(約240億円)を拠出すると発表しました。私はその時、湾岸戦争の悪夢を思い出したのです。あの時日本は、120億ドル(約1兆4千億円!)という巨額の援助をしたにもかかわらず、「お金を出すだけで、何の汗もかかない国」というレッテルを貼られてしまいました。国会議員として、「国民の血税が効果的に使われるかどうか、あの湾岸戦争の二の舞だけは避けなければならない」という、止むに止まれぬ思いから、私は平成11年(1999年)5月、仲間の国会議員とともに連休を使い自費でコソボ難民キャンプを訪れたのです。

そして私たちは現地で驚くべき事実を知りました。現地の難民にはまったく日本の支援が伝わっていなかったのです。

国連が設置した3万人の難民キャンプには、テントや食料が支給されています。最大の資金援助国はもちろん日本です。アメリカやイギリス等、各国の物は国旗が大きく入り、どこの国の支援物資であるか一目瞭然です。ところが、日本の供給したテントや缶詰は無印で、真っ白な新しい日本のテントがキャンプの中に張り巡らされていました。私は難民の方々に声を掛け励ましながら、自分を何人と思うか聞いてみると、中国人や台湾人(医療テントが出ていたのです。)と答える人ばかりで、日本人といってくれた人は一人もいません。その訳はすぐに判明しました。国連のキャンプといっても、国連の職員はたったの3人で、あとは委託を受けた各国のNGO(非政府組織)が難民の世話をしていたのです。その数は数百人に上りますが、その中に日本人は一人もいなかったのです。

私はこの日本の悲惨な状況を変えるために、仲間と具体的な対策を相談しました。そして帰国する飛行機の中でまとめた報告書の表題に考え付いたのが、「日本の顔の見える国際貢献」という言葉だったのです。私たちは帰国するとすぐに小渕総理や高村外務大臣(当時)をはじめ、自民党の外交部会等で現状を報告し、日本の国際支援の実情とその対応策について強く提言いたしました。

具体的には、
@わが国支援は資金拠出のみに頼らず、人的支援(日本NGO)を拡充すべき。
A支援物資には日本の国旗を必ず表示する。
B国連業務に日本NGOが参加できるよう政府の働きかけを強めるべき。
というものでした。

その提言は政府・自民党内に大きな反響を呼び、6月に自民党調査団が組織され、私が案内役を務めました。8月末には、仮設住宅をコソボに贈るプロジェクトの団長として、私は3度目の出張をいたしました。

日本の支援物資であることをアピールするステッカーを作ったのはこの時です。日の丸の下に「 From the People of Japan(日本国民からの支援)」という言葉を添えただけのわかりやすいデザインとし、私が自民党の外交部会で提案したところ、居並ぶ議員より大賛成をもらい、このステッカーは日本政府の公式なものとなりました。以降トルコ地震、インド地震、東ティモール紛争、アフガン支援、イラク支援と続いた日本の国際貢献事業にすべて使用されております。支援物資にこのステッカーが貼られ、現地に届けられているのを見ることは、私の内なる喜びです。

そして、わが国の外交方針はコソボ以降、大きく転換されました。NGO支援制度を拡充したことで、その後に発生した国際支援の現場で日本人や日本の団体が活躍するようになり、少なくとも、「お金だけで何もしない国」というそしりは免れるようになったのではないでしょうか。日本の外交を、お金を配るだけのものから、国際社会で共に汗をかき、責任を持って行動する外交に転換させること=これこそが「顔の見える国際貢献」を提案した狙いでした。

私たちの国、日本が世界の人々から信頼され、尊敬されるために、どのように行動し、発言するべきか?外交の進め方が、私たちの国の安全と繁栄に大きな影響をもたらすことを、改めてお訴え申し上げたいと思います。

私は、国会議員として外交に取り組むうちに、「日本の国際貢献」という仕事を自らのライフワークと感じるようになりました。議席を持たない今でも、その気持ちに何の変わりもありません。9月21日から25日まで、親交のあるNGO団体より是非現状を見て欲しいとの依頼を請け、インドネシアより独立した東ティモールに視察に行って参ります。次号では、独立後の東ティモールの状況や、わが国の取り組み等、この『週刊新藤』を通して皆さまにご報告させていただきます。

【 コラム − 川口に映画館決定! 】
「週刊新藤・第23号」で“この街にシネコンを!”という提言をさせていただきましたが、サッポロビール跡地に映画館が建設されることが決定しました。
この映画館はイトーヨーカドー内に設置され、10スクリーン・座席数約2,200席のシネマコンプレックスとなります。オープンは来年11月の予定です。
私のところへもメール等でシネコンを望む声が多数寄せられておりました。皆さんの声がシネコン実現につながったものと、私も心から喜んでおります。


新 藤 義 孝


新藤義孝プロフィール

 昭和33年川口生まれ。明治大学卒業。
 川口市役所で地方自治を経験し、市議を経て、
 平成8年38歳で衆議院議員に。当選2回。

 小泉内閣では総務大臣政務官(43歳)、
 続いて国会対策副委員長、
 外務大臣政務官(44歳)を歴任。
 昨年11月の総選挙で惜敗。次をめざす46歳。


☆ 新藤義孝後援会事務所 ☆

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