2月17日、ワシントンD.C. において第73回米国・硫黄島協会の総会が開かれ、夕方からのセレモニーでこの度創設された「平和・和解賞」の授与式が行われました。
昨年亡くなられたローレンス・スノーデン海兵隊退役中将を顕彰し創設されたこの賞の、記念すべき第一号受賞者として光栄にも私が指名され、全米から集まった関係者を前に記念のスピーチを行いました。
スノーデン将軍は、前・米国硫黄島協会の会長として、長年にわたり硫黄島の日・米合同慰霊祭の開催に多大な貢献をされてきました。
世界でただ一箇所のみ続けられている、かつて戦った敵同士が再会し、互いを讃え亡くなった仲間を追悼・顕彰する合同慰霊祭については、日・米硫黄島関係者の和解と友情への努力が、戦後の日・米両国の信頼と友情に結びつき、今日の強固な同盟関係の礎になったと、安倍総理より戦後70年に節目に行われた米国議会演説の中で紹介されたのです。
米国上・下両院議員が総立ちの拍手の中、傍聴席にいたスノーデンさんと私が交わした固い握手の感触を忘れることはありません。
この度の「平和・和解賞」は、戦後の日・米和解の努力と平和への願いを次代に伝え引き継ぐ為に創設されました。
もとより受賞の栄に浴するのは私ではなく、かつて戦った日・米の硫黄島の勇者たちであり、その魂はこの会場に来ている、とスピーチしました。
参加者全員は同じ想いを共有し、私はスノーデンさんの遺族や米国硫黄島協会の関係者たち友人と、握手や抱擁を繰り返し喜び合いました。
セレモニー後の食事の際には、大勢の縁ある方たちがひっきりなしに声をかけてくれ、記念のサインや写真を撮るなど、楽しい交流がずっと続きました。
驚いたのは、1970年台に交流し、川口の自宅まで訪ねて来てくれた今は故人となった方の娘さんから声をかけられた時のことです。
当時の写真を見せられ話しているうちに、まだ若かった頃の記憶が今は亡き祖母や母の思い出と共にはっきりと蘇りました。
硫黄島の勇者たちの交流は簡単に始まった訳ではありません。生還した方や直接の遺族たちの感情は日・米双方に複雑なものがあり、会うことを拒む方の方が多かったと聞いています。
第一回の硫黄島日・米合同慰霊祭は「名誉の再会」と称され、戦闘終結から40年後の1985年に行われました。
私はその時、母と一緒に初めて硫黄島を訪れましたが、日・米双方とも互いの距離を測り、粛々と式は進みましたが、言いようもない複雑な雰囲気があったことを良く覚えています。
仲間を失った想い 、大切な愛しい人を奪われた想いは申し上げるまでもありません。
第二回目の日・米合同慰霊祭はそれから10年後、第三回目はその5年後と、開催には時が必要でした。
しかし互いの生還者たちの年齢が上がり、5年後ではもう島に行けなくなるかも、ということから現在のように毎年開催が行われるようになったのです。
私がその後に硫黄島に行くようになったのは国会議員となってからです。当時は慰霊祭に参加する政府の要人はおらず、国会議員の参加も私一人という今では考えられない状況でした。
その内に私が総務大臣政務官や外務大臣政務官として参加するようになったことから、外務、防衛、厚労省が私の役職に合わせて参加者を選定するようになり、政務官の時は政務官、副大臣になれば各省も副大臣が参加、当然官僚も局長、審議官とレベルが上がります。
そして私が大臣になった後に、ついに式典に中谷防衛大臣と塩崎厚労大臣が閣僚初参加を飾ってくれたのです。
因みに私は大臣としては参加できませんでした。
その頃は三月の慰霊祭は平日開催だったため、国会開会中であり予算委員会の審議が真っ最中の時期に国会を開けることはあり得なかったのです。
閣僚として二度の参加機会がありながら何としても慰霊祭参加が果たせなかったことには、今でも痛恨・後悔の念が残っています。
そこで私は米側と話し合い、現在のような土曜開催とすることを申し入れました。
本年の慰霊祭は3月24日(土)ですが、今回も外務・防衛・厚労の各大臣が参加を検討してくれています。
このコメントはワシントンD.C.からL.Aに移動中の飛行機の中で書いております。まとまった時間があったため長文になったことを恐縮に思いますが、どうかお許しください。
これまで様々取り組んできた硫黄島に関することが浮かんで参りました。
天山慰霊脾を2年間かけて50倍規模に拡充し整備したり、それまでの個別調査から面的遺骨収集を集中実施するようにしたり、日米合同慰霊祭にチャーター機を飛ばし高齢者の負担軽減を図ったり、何より大切なご遺骨の収容帰還事業の予算を安倍内閣として25倍に拡充したり、森喜朗・元総理に会長になっていただき立ち上げた「国会議員による硫黄島問題懇話会」の活動等々。
そして、今はもうお会いすることができなくなった硫黄島の戦友のために、一生懸命活動された武人の佇まいを残した懐かしい方々のこと…
国会議員となって22年間、私たちの平和と現在の繁栄が、大切なものを護るため自らを捧げた尊い方々の上に成り立っていることを胸に刻み、微力ながら活動してまいりました。
未だに見つからず島に潜み眠ったままのご遺骨は約5割、一万余柱を超えているのです。
遺骨収集を国の責任と明確に定めた法律も成立させていただきました。
英霊の追悼・顕彰を続けていくとともに、英霊の皆様を一人残らず故郷にお還りいただくまで硫黄島の戦いは終わってはいません。
懸案の硫黄島滑走路下の収集調査もいよいよ本格化いたします。
硫黄島は未だ水が取れず、民間人は一人も住んでおりません。
今は穏やかな、戦後の時が止まったままのこの島を、私は二度と悲しい戦争を起こさない「平和を祈る島」として残し整備したい、と考えております。
この度の「平和・和解賞」受賞を、果たして73年前の勇者の皆様はどう思われるのか、喜んでくれるのでしょうか。私たちはこれから何を為すべきなのか。
そうしたことを常に考えながら、自らに与えられる務めを果たしてまいります。