第43号 備えあれば... 防災の心得

 昨年は自然災害の多い年でした。連続上陸した大型台風が国内各地に甚大な被害をもたらし、新潟県中越地震は今なお深刻な爪痕を残しています。さらに年末に発生したインド洋大津波の死者・不明者数は29万人を超えてしまいました。
 震災から10年を数えた神戸ではこの1月に国連防災会議が開かれ、地球規模の減災を推進していく決議が採択されました。
 自然災害は私たちにとって大きな脅威であり、国際規模、国家規模、また県や市町村など様々なレベルで対処すべき問題です。そしてそれは政治や行政の役割でもあります。
 しかし何よりも、住民一人ひとりが防災に対する意識を高め、正しい知識に基づく適切な行動をとり、そして平時から備えをしておくことは大切なことです。今回の週刊新藤では、個人でできる災害への備えについてご提案させていただきます。

◆チェックシート◆ 《 家庭の防災確認 》 
 □ 非常持ち出し品を用意しており、置き場所がわかっている
 □ 持ち出し品の中身や備蓄品を定期的にチェックしている
 □ 風呂の水はいつも落とさないようにしている
 □ 家に消火器があり、設置場所と使い方がわかっている

 □ 家具類に転倒防止措置を行っている
 □ 寝ている上に物が落ちてこないように家具を配置している
 □ 観音開き戸には中身が飛び出ないよう止め具をつけている
 □ 窓ガラス等に飛散防止フィルムを貼っている
 □ 出入り口や通路に物を置かないようにしている

 □ 簡単な応急手当に関する知識・技術を身につけている
 □ 地域や学校、職場などで行う防災訓練に参加している

 □ 避難所や合流場所への安全な行き方を確認している
 □ 家族が離散した際の連絡方法や合流方法を決めている
 □ 町会や隣近所で協力体制について話し合っている

[わが家の防災をチェックしよう]

 まず、上記のチェックリストを試してみて下さい。あなたはいくつの項目にチェックができましたか?

[家族防災会議をしてみましょう]

 「地震が起きたときどうすればいいか?」「家族が別々になった時の連絡は?」など、いざという時に冷静な対応がとれるよう、普段から話し合っておきましょう。

家族の役割分担について
 火を消す人、ドアを開ける人、お年よりを守る人、非常持ち出し品を管理する人を決めておきましょう。

非常持ち出し品や備蓄品は?
 地震によって物資輸送ルートが寸断する場合に備え、最低3日分の飲料水と食料、衣類、その他の日用品を用意しておき、その置き場所を全員で確認しましょ
う。期限切れの物がないか定期的なチェックも必要です。(最後の頁に非常持ち出し品のチェックリストをつけました。どうぞ切り取って家の中の目立つところ
に貼り、役立たせていただければ幸いです)
 これら非常用持ち出し品は、いざというときに持ち出せるようリュックサック等に詰めておきましょう。

私の仲間の若手企業家たちがこの度NPO法人「M・D・Pかわぐち」を結成。住みやすい街づくりを目指し様々な企画を展開中です。その内のひとつ、「防災缶」をご紹介します。水や非常食・衛生用品・懐中電灯等が予め入っており、その他必要に応じ物を入れるスペースもあります。長円型の上蓋をはずして付属する生分解ポリ袋を使えば簡易トイレとしても利用できるアイディアグッズです。
                 http://www.kamiaoki.com/

家族との連絡は?
 災害伝言ダイヤル「171」など、家族が離ればなれになったときの連絡方法を考えておきましょう。

家の危険なところを確認
 家の中で危険なところはないか確認しましょう。階段や廊下・入り口に物を置かないようにしましょう。家具は地震で倒れないように固定したり置き方を工夫しましょう。阪神大震災での犠牲者の8割以上が家具や家屋の倒壊で亡くなっています。
 食器棚等の開き戸から中身が勢いよく飛び出してくる場合もあります。「開き戸ストッパー」という製品も市販されていますが、開き戸の取っ手に輪ゴムをかけておくと簡易的なストッパーになります。

避難場所・避難方法の確認
 家の近くの避難場所はどこか、また実際にそこまで歩いてみて途中に危険なところはないか確認しましょう。会社や学校にいるときなどいろんなケースで考えてみましょう。
 なお、災害発生時には自家用車は使用しないようにして下さい。阪神大震災の初期段階では、道路中にあふれた一般車両により緊急自動車の活動に支障が生じています。

 天災の発生は防げませんが、様々な工夫で被害を小さく抑えることは可能です。皆さんも周囲の防災対策を見直してみてはどうでしょうか。

◆チェックシート◆ 《 非常持ち出し品リスト 》 

□ 飲料水
□ 乾パン
□ 缶 詰
□ レトルト食品
(賞味期限:  年  月  日)
(賞味期限:  年  月  日)
(賞味期限:  年  月  日)
(賞味期限:  年  月  日)
□ 割り箸
□ 栓抜き
□ ラップ
□ 紙皿
□ 缶切り
□ アルミホイル
□ 紙コップ
□ ビニール袋
□ 携帯ラジオ
□ 使い捨てカイロ
□ 懐中電灯
□ ビニールシート
□ 予備の電池
□ 携帯ガスコンロ
□ ライター・マッチ □ 乾電池式携帯電話充電器
□ 下着
□ 靴
□ 寝袋
□ 靴下
□ 雨具
□ 毛布
□ 防寒具
□ タオル
□ 軍手・手袋
□ 洗面具
□ ティッシュ
□ ごみ袋
□ ウェットティッシュ
□ 筆記具
□ ガムテープ
      ※ 雨に備え、衣類や小物類はジップロック等で
        密閉しておくとよいでしょう
□ 現金(硬貨も)
□ 健康保険証 
□ 身分証明書
□ 家や車の鍵
□ 通帳、証券類
□ 印鑑
□ ばんそうこう
□ 風邪薬
□ ガーゼ・包帯
□ 常備薬
□ 消毒薬

新 藤 義 孝

第42号 憲法問題 安全保障と第9条



 
戦後60年、憲法については様々な議論がなされてきました。その最大の焦点が9条の問題です。東西冷戦の勃発、自衛隊の誕生、安保闘争、冷戦終結、
PKO、テロとの戦い、そして自衛隊の海外派遣。国際情勢が激変する中、その節目ごとに9条問題が俎上にあがり、その時々の解釈によって政策決定が行われ
てきました。

 時としてそれは、改憲・護憲・論憲等色々な立場から、法律解釈や現実的妥当性といった見地からの議論だけではなく、イデオロギー闘争の手段としても利用
されてきてしまったようにも見受けられます。今回の週刊新藤では、9条解釈の歴史を振り返りつつ皆様と共に今後の9条のあり方を考えてみたいと思います。

[憲法第9条とは]

 第9条は日本国憲法の三大原則のひとつである平和主義を具体的に規定する条文であり、この条文だけで憲法の第2章を構成しています。この条文は「戦争の
放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」の3つの要素から成っています。私たちの憲法が「平和憲法」と呼ばれるのは、憲法前文の記述とこの第9条の存在に
由来しているのです。

日本国憲法 第二章 戦争の放棄
  第九条


1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

[9条の解釈]

 憲法9条の規定については、その趣旨、「戦争」の定義、「国際紛争を解決する手段としては」という留保の意味、「戦力」の定義、「交戦権」の定義などについて、制定当初より幾多の議論がなされてきました。

 憲法9条全体の解釈としては、
①自衛権を含め一切の戦争行為及び戦力を否認しているとする説
②自衛権は否定していないが戦争行為は否認しており、そのための戦力も認められないとする説
③自衛の範囲内ならば戦争も戦力も認められるとする説

という3つの説が主なものとなっています。

[国際情勢の変化と9条解釈の経緯]

初期の9条論議の争点は、自衛隊の存在そのものについてでした。
・憲法制定当初(1946年)、時の吉田内閣は「直接には自衛権を否定するものではないが、第2項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も交戦権も放棄する」とした。
・朝鮮戦争(1950年)に伴い警察予備隊設置。「警察予備隊の目的は治安維持にあり、従ってそれは軍隊ではない」
・日米安保条約発効(1952年)、米軍への在日基地提供義務が生じる。警察予備隊が保安隊に。「憲法で禁止される戦力とは近代戦争遂行能力を備えるもの」「米駐留軍は9条とは関係がない」
・防衛庁設置、自衛隊発足(1954年)。鳩山内閣「自衛隊のような自衛のための任務を有し、その目的のため必要相当な範囲の実力部隊を設けることは、憲法違反ではない」
・新安保成立(1960年)、米軍への施設提供を義務化。「日本領土が攻撃された場合にのみ日米共同作戦を遂行する。それ以外の場合、日本は米軍と共同作戦をとることはできない=集団的自衛権は行使しない)」

日本の国際貢献への気運が高まった近年では、自衛隊の海外支援のあり方が問われてきました。
・湾岸戦争勃発(1991年)。国連決議による多国籍軍が派遣されたが、日本は参加せず経済支援のみ実施。
・湾岸危機後、PKO協力法成立(1992年)。自衛隊カンボジアへ。「国連平和維持活動は強制的手段により平和を回復しようとするものではない。この法律に基づき自衛隊が参加することは海外派兵に当たらない」
・周辺事態法成立(1999年)。「戦闘行為とは区別される後方支援は集団的自衛権の行使には当たらない」・米への同時多発テロ(2001年)。テロ対策特別措置法成立。自衛隊をインド洋に派遣。
・イラク復興特別措置法成立(2003年)。「活動地域は非戦闘地域のみとし、自衛隊員の武器使用は正当防衛と緊急避難に限定する」

[国際平和を築いていくために]

 国際紛争を予防し世界の平和と安全を創造・維持するために、日本の果たすべき役割は何でしょうか。これを考える際に、現在の9条論議の中心をなす集団的自衛権の問題を見過ごすことはできません。

 日本政府は1960年代以降、ほぼ一貫して「国際法上、集団的自衛権を保有していることは主権国家として当然だが、憲法9条で許容される自衛権の範囲を
超えるため、憲法上は行使を許されない」との解釈をしてきました。しかし、1991年の湾岸戦争を契機とした国際平和維持活動への参加問題や2001年の
米同時多発テロにより、日本は日米同盟の枠を超えた国連や国際協調による平和活動にどこまで協力できるのか、を問われることとなったのです。

 集団的自衛権の行使が制約されている現状では、例えばイラクで人道復興支援活動を行う自衛隊がオランダ軍に警護されている一方で、オランダ軍が攻撃を受
けた際には共に反撃することができないという矛盾が生じています。同様に、今まで自衛隊はいくつかのPKO活動に参加してきましたが、同じPKOに参加し
ている国の軍隊を守ることができないという問題もあります。テロリズムが国際的な脅威となっている現代で、わが国は後方支援という限定された形でしか行動
できない現状があります。59年前につくられた憲法を解釈のみで運用している限界が現
れているのです。

 9条の精神は確かに素晴らしく、9条に触れることで日本が戦争に巻き込まれるのでは、と危惧する方々の気持ちもよく理解できます。まず戦争放棄の理念は
堅持した上で、国際平和を積極的に構築していくわが国のあり方とその指針について、より一層の憲法論議を深めていくべきだと思います。

新 藤 義 孝

第41号 憲法は改正できるのか?

[自由な憲法論議を目指して]

 本年は戦後60年目。人間で言えば還暦にあたるまさに節目の年です。私は、地域に根付いた活動を大切に続けながら、この国全体をしっかりと見据え、私たちの国の進路を見定める1年にしたいと決意を新たにしております。

 私が国政に携わって以来、ずっと取り組んできた最大のテーマが日本国憲法の問題です。我が国法体系の根本をなし、国のあり方と私たちの暮らしの指針を示す憲法について千思万考することは国会議員の責務と心得て参りました。

 ほんの10年ほど前まで、わが国では閣僚が改憲の必要性を口にしただけで野党やメディアなどから非難の声があがり、場合によっては罷免を要求されると
いった政治的状況が続いていました。そうした世相を疑問視していた私は、衆議院議員初当選の翌1997年に設立された超党派の「憲法調査委員会設置推進議
員連盟」に参加し、「国権の最高機関である国会において、党派を超え全国民的立場で憲法論議を真摯に展開していくことは、政治家に課せられた最大の使命だ」
いうことを、仲間とともに強く主張して参りました。おかげ様で、2年後の1999年通常国会において国会法改正修正案が可決・成立し、衆参両院に憲法調査
会が設置され、正式な議論が始まりました。私も、2001年には衆議院憲法調査会の幹事に就任し、調査研究に邁進しました。

 
「自主憲法の制定」を党是として掲げる自民党は、結党50年を迎える今年11月をめどに憲法改正草案を策定することを表明しました。改憲論議はいよいよ高
まり、今年はさらに加速していくことでしょう。このように憲法について自由に語り合える状況を迎えられたことを、私は非常に嬉しく思っています。

[現行憲法の成り立ちを考える]

 59歳を迎えた私たちの憲法。その誕生当時には想定すらされなかった現代の社会状況の中で、現実との乖離(かいり)が生じてきているのは否定できない事
実です。もとより、刑法であれ民法であれ、全ての法律は時代の変化に応じ常に内容を適合させていくことは当然のことなのです。なぜ憲法の改正だけが、長い
間タブー視され続けてきたのでしょうか? ここで簡単に現行憲法の成立過程を振り返ってみます。

 1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争は終結しました。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、ポツダム宣言や被占領国の法
律を尊重することを定めたハーグ陸戦条約に即して、日本が大日本帝国憲法を改正するように要請。マッカーサーから憲法の改正を指示された当時の幣原内閣
は、松本国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会を設置し、改正案作りにとりかかったのです。

 
ところが、1946年2月1日、憲法問題調査委員会が作成した日本側草案がマッカーサーに報告される前に毎日新聞にスクープされ、そのあまりに保守的な内
容に驚いたGHQのホイットニー民政局長は、総司令部に政府案が提出される前に憲法改正の指針を与えるべきだとマッカーサーに示唆したのです。2月3日、
マッカーサーはGHQ民政局に命じて憲法草案を作成するよう指示。いわゆるマッカーサー3原則(象徴天皇・戦争放棄・封建制度廃止)に基づき、実務責任者
だったケーディス陸軍大佐の下で秘密裏に草案作りが行われ、2月10日にGHQ草案が脱稿されました。2月8日、何も知らない日本政府は改正案をGHQに
提出。GHQはこれをとりあえず受け取ったものの、2月13日には日本政府に政府案の拒否を告げると同時にGHQ草案を渡しました。

 結局、このわずか1週間で英語で作成された草案が、現在の日本国憲法となったのです。その後の成立過程は旧憲法の正規の手続きに従ったものではありますが、やはりその経緯において「わが国国民の自主的な民意に基づくもの」とは言えないと私は考えています。

[諸外国の憲法改正状況に比して]

 もちろん、現行憲法に盛り込まれた国民主権・基本的人権の尊重・戦争放棄などの基本原則が、戦後の民主主義を確立し日本の発展の基盤として大きな役割を
果たしたことは間違いのないことであり、私もその精神は高く評価しております。しかし、軍国主義の復活を怖れるあまり、必要以上に憲法を神聖視してしまう
風潮が生じたのも、また確かなのです。

 上記の表に示したように、どの国においても時代の要請に応じて憲法は度々改正されています。私たちの憲法は、59年にもわたり一言一句の改正もなされていないという意味において、現存する世界最古の憲法となってしまっているのです。憲法改正は、国際的に見ても常識的かつ必要な措置であり、それは私たち国民の自発的な自由意思に基づき取り組まれるべきものなのです。

 私は、今後の「週刊新藤」において、憲法論議の争点となっている安全保障や国際協力の問題、公と個人の権利や、国と地方との関係、私学助成問題に加え環境権などの新たな権利も含め、個別の事項について各々提言させていただきたいと考えています。

 そして、まず何よりも憲法論議自体を活性化させ、広く皆様に知っていただくことを今の私に課せられた責務と考え、多くの方々と意見を交えていきたいと思っています。

新 藤 義 孝

第38号 「サンタって本当にいるの?」 バージニアからの手紙

“Yes, Virginia, There is a Santa Claus…”
   from THE NEW YORK SUN. 1897


が園長を務める川口ふたば幼稚園では、毎年12月に園児たちによる演劇発表会を行います。私は毎回サンタクロースの扮装をして登場するのですが、子どもた
ちは大喜びで私の周りを取り囲みます。中には「サンタさんは園長先生なんでしょ?」と聞いてくる子どももいますが、私は「違うよ」と笑って答えます。とて
も嬉しく思ったのが、小学5年生になった卒園児が私を訪ねてきてくれたときのことです。その子はひとしきり幼稚園時代の思い出話をしたあとで、「あの時の
サンタさんは、やっぱり先生だったんでしょ?」と私に尋ねます。しかしそこでも私は「違うよ」と答えると、その子は「えー?」と言いながらも嬉しそうに
にっこりと微笑みました。

皆さんはお子さんに尋ねられたことはありませんか?「サンタって本当にいるの?」と。

現在でも語り継がれている有名な新聞社説があります。このお話は今から100年以上も前、ニューヨークに住むバージニアという女の子が、学友にサンタの存
在を否定されたことから始まります。バージニアはお父さんのすすめにしたがって、新聞に投書してみました。その新聞社、ニューヨーク・サン紙は、小さな女
の子からのたどたどしい手紙を社説で取り上げ、こう答えたのです。

「こんにちは。わたしは8さいの女の子です。ともだちが、サンタクロースなんていないといいます。パパは、わからないことがあったらしんぶんにきいてみなさいといいました。ほんとうのことをおしえてください。サンタクロースはいるのですか?  バージニア・オハンロン」

「バー
ジニア、それは友だちの方がまちがっているよ。きっと、見たことがないものは信じられないんだね。自分のわかることだけが全てだと思ってるんだろう。でも
ね、大人でも子どもでも、全てのことがわかるわけじゃない。この広い宇宙の中では、人間って小さな小さなものなんだ。ぼくたちは、まだこの世界のことをほ
んの少ししかわかっていないんだよ。

そうだよ、バージニア。サンタクロースはいるんだ。愛や、思いやりや、いたわり
いう気持ちがちゃんとあるように、サンタクロースもちゃんといるんだ。愛もサンタクロースも、ぼくらに輝きを与えてくれる。もしサンタクロースがいなかっ
たら、暗くさみしい世の中になってしまうだろう。人が感じるのは、ただ目に見えるもの、手で触れるものだけになってしまう。信じる心も、詩を楽しむ心も、
人を好きだって思う気持ちも、全部なくなってしまうだろう。みんな、何を見たって面白くなくなるだろうし、この世界を楽しくしてくれる子どもたちの笑顔
も、消えてなくなってしまうだろう。

クリスマスイブの日に、パパに頼んで煙突を見張ってもらったとしよう。サンタクロースが煙突から降りてくる姿を見なかったとしても、それがどんな証拠にな
るだろう。サンタクロースは誰にも見えないんだ。この世で一番大切なものというのは、子どもの目にも大人の目にも見えないものなんだよ。

目に見えない世界には、どんなに力の強い人がたばになってもこじ開けることのできないカーテンがあるんだ。信じる心や想像力、詩を楽しむ心、愛や人を想う
気持ちだけがそのカーテンを開けることができて、たとえようもなく美しい世界を見たり、思い描くことができるんだ。いいかい、バージニア。これほど確か
で、いつまでも変わらないことはないんだよ。

サンタクロースはずっと、いつまでもいるんだよ、バージニア。何千年たっても、何万年たっても、きっとサンタクロースは子どもたちの心をわくわくさせてくれると思うよ」

1897年に掲載されたこの心暖まる社説は、以後幾度となくクリスマスが近づくと世界中の新聞雑誌で取り上げられてきました。日本でも新聞やテレビで紹介されたり日本版の絵本にもなっているので、ご存知の方も多いでしょう。


の手紙を送った少女、バージニアは後に教職に就き、晩年はブルックリンにある長期入院児童のための公立学校で校長を務めました。その生涯にわたって、幼い
彼女が書いた投稿についての手紙を受け、その全てにこの社説のコピーを添えた返事を書いていたそうです。彼女が81歳で亡くなったとき、ニューヨーク・タ
イムズは、「サンタの友だちバージニア」という記事を掲載、「アメリカのジャーナリズムにおいて、もっとも有名な社説が書かれるきっかけとなった少女」と
その死を悼んだのです。

夢や希望、人を思いやる気持ち、信じる心。目には見えなくても確かにある大切なもの。そういったものをサンタクロースと呼ぶなら、現代ほどサンタクロースが必要とされている時代はないのかもしれません。

皆さんはこの社説を読んで、どうお感じになったでしょうか? 最後に、アメリカのある児童文学評論誌に掲載された文章の要約をご紹介させていただきます。

「子
どもたちは、遅かれ早かれサンタクロースが本当は誰かを知る。知ってしまえば、そのこと自体は他愛のないこととして片付けられてしまうだろう。しかし、幼
い日にひとたび心にサンタクロースを住まわせた子どもは、その心の中にサンタクロースを収容する空間をつくりあげ、信じるという能力を養う。私たちは、サ
ンタクロースその人だけでなく、サンタクロースが子どもの心に働きかけて生み出すこの能力をこそ大切にしなければいけない」

新 藤 義 孝

第37号 わが街の防犯を考える


昨年の川口警察署管内の刑法犯認知件数は 10,775件
これは秋田県の総数(10,616件)を上まわる数字です。
この驚くべき犯罪件数の増加に対し、私たちはどう対処していけばいいのでしょうか?


埼玉新聞の社会面に「ひったくり」「路上強盗」「侵入盗」といった犯罪の一日の件数が発表されており、川口市はいつも上位にランクされています。一般紙の埼玉版においても、川口市の記事は犯罪関係のものが目立ちます。

そもそも埼玉県自体が犯罪の多い県であり、犯罪件数は増加する一方で、それと反比例するように犯罪検挙率は著しく低下しています。

ではなぜそのようになったのか?まず第一に、埼玉県の人口増加率が全国トップクラスで急激な都市化が進み、隣近所や地域の人間関係や連携が希薄化し犯罪者に狙われやすい”スキ”が生じてしまっていることがあります。

また、次の大きな原因として、「警察力の整備の遅れ」があげられます。警察官の人員不足は深刻で、警察官1人当たりの負担人口は平成15年度まで19年連続で埼玉県が全国ワースト1だったのです。


察官の増員は、国の配分によって決定されます。長く続いた革新県政のひずみがこんなところにもあらわれているのです。さらに加えて、川口市の警察力整備の
遅れも、革新県政時代の県と市の関係に少なからず影響されていると言わざるを得ません。私は国会時代に県選出の同僚議員とともに、埼玉と川口の遅れを取り
戻すべく、予算要求折衝を行うたびにこの問題を精力的に取り上げてまいりました。結果、平成13年度以降4年連続して全国最多の増員が実施され、負担率
ワースト1からの脱却が図られたのです。

しかし、なお埼玉県の負担人口は680人と依然高い状態にあり、これは東京都の倍以上の数字になっているのです。

地域の発展や安定のために政治がとても大きな影響を与えることを、改めて皆様にお訴えしたいと思います。

この警察力の増強を含む治安問題は、埼玉県・川口市ともに最重点課題となっており、今後の改善に向けて私も引き続き取り組んでまいりたいと思います。

しかし、この犯罪の多発や治安の乱れは警察や行政にまかせておくだけでよいのでしょうか?私が今回皆様に強く提言したいのは、防犯活動について「やれることから始めよう。できる人から始めよう」ということです。

警察にしか出来ない犯罪の取り締まりは警察にお願いし、私たちは地域の交流を深めることで地域全体の防犯性を向上させ、犯罪の発生そのものを未然に防ぐ活動をおこなっていくべきです。

このような市民や民間の手による自主的な防犯活動は、全国でも急速に広がりつつあります。我が街でも、町会やPTA、また有志のボランティアによる防犯パ
トロールを実施している地域も増えています。パトロールを通じて、自分の身の周りの環境を点検し、事件や事故が発生する危険性の高い場所を把握し、地域ぐ
るみで改善していく。最も大切なのは、声を掛け合い、周囲の人たちと頻繁にコミュニケーションをとることです。地域の結束力がなく他人に無関心な街は、犯
罪者に狙われやすくなってしまうのです。

無理なく、可能な範囲・時間帯で、継続して。私も愛犬家の仲間たちと「わんわんパトロール」を始めることにしました。皆さんも、できることから少しずつ始めてみませんか?


■11月28日 川口ワンワンパトロール隊出動

34号でご紹介した「川口ワンワンパトロール隊」南平地区出動式が11月28日(日)、川口元郷駅前の芝川公園で開催されました。130人もの参加者と
79匹のワンちゃんが集まり、各々リードに黄色い旗をつけ、地域の防犯意識向上を目指したデモンストレーション行進を実施。私たち DogSkip
もオリジナルのジャンパーを着て参加しました。


■12月12日 DogSkip主催
  第1回わんわんパトロール実施!

12月12日(日)、「人と犬とが共存できる社会づくり」を目指す私たちDogSkipが主催する第1回わんわんパトロールを実施しました。あいくにの雨天にもかかわらず、集合場所のスキップシティー交流広場には、50人もの皆様が集まって下さいました。

第36号 障害者無年金問題を考える ~安心・公平な年金制度の確立を~

私たちの暮らしに直結する年金問題。しかし、現行の年金制度は、多様化し少子高齢化が進む今の社会には適合せず、多くの問題を抱えるに至っています。
今回は、特に障害者無年金という問題を取り上げ、誰にも公平で信頼のできる制度の確立に向けて皆様とともに考えて参りたいと思います。

■依然不信続く年金問題
 10月1日から年金制度改革法が施行され、厚生年金と共済年金の保険料が引き上げられました。さらに来年4月からは国民年金保険料が引き上げられる一方で、年金給付が引き下げられることになっています。
 少子高齢化が加速する中、年金問題は私たちの暮らしに直結する最も切実な課題のひとつです。しかし、国民が納得し安心のできるビジョンの欠如、社会保険庁による度重なる基金のずさんな運用など、年金に対する国民の不信感はますます増大しているのではないでしょうか。
 会計検査院はこの11月、「国民年金保険料の未納期間が過去2年間に1か月以上ある人が、昨年度は1130万人にのぼる」と発表。社会保険庁が繰り返し
てきた「過去2年間保険料を全く納めていない人数は全国で327万人」という説明よりもさらに深刻な実態が明らかになりました。

年金制度への不信感を表していると言える保険料未納問題。
会計検査院がこの11月に発表したデータにより、社会保険庁が繰り返してきた「国民年金の未納率はおよそ4割弱」という説明よりもさらに深刻な実態が明らかになりました。

 国民年金制度とは、国民の社会的な共同連帯の理念によって全ての人がもつ生存権などを保障しようという社会保障制度です。この原則に立ち返り、一刻も早く誰もが安心のできる制度を確立し、年金への信頼を取り戻すことは、私たち政治家の重大な責務です。

■「障害者無年金問題」とは?
 現行の年金制度は、さまざまな問題を抱えています。そのうちのひとつが、今回のテーマである「障害者無年金問題」です。
 現在、障害をもった方への所得の保障には、生活保護と障害年金という制度があります。このうち生活保護は広く一般の生活困窮者を対象とする制度であり、障害者への特別な所得保障ではありません。一方、障害年金は障害の状態に対応し障害者へ支給される制度です。
 障害基礎年金の支給を受ける条件として、障害を負った時に国民年金に加入していなければいけません。しかし、様々な理由で加入しておらず障害基礎年金を支給されない人たちが「無年金障害者」です。
 障害者が無年金になるケースは、主に次のようなものがあります。

①国民年金に加入義務のある自営業者や学生などが、未納・未加入を続けていて障害を負った。

②任意加入だった(’91.3まで)時期の20歳以上の学生が、その時期に加入せずに障害を負った。

③任意加入だった(’85.3まで)時期の会社員に扶養される主婦が、その時期に加入せずに障害を負った。

④在日外国人は’82年から国籍要件が撤廃されて国民年金の対象となったが、それ以前に障害を負った。

⑤在外邦人は’85年度以前には国民年金に任意で加入する仕組みがなく、その時期に障害を負った。

 私が今回この問題に着目したのも、市内に住むある障害をもった方から相談を受けたからです。調べるうちに、経済的に困窮している無年金障害者の数は思っ
た以上に多いことも知りました。私は、年金制度に対する信頼を取り戻すためにも、「法の下の平等性」を確保し、無年金障害者をなくすよう尽力していかなけ
ればならないと痛感したのです。

■誰にも公平な年金制度の実現を
 この障害者無年金問題は今国会で審議され、議員立法の「特定障害者給付金法案」が可決成立する見通しとなりました。来年4月から1級障害者に月5万円、2級障害者に月4万円の「特別障害給付金」が支給されることになります。
 これは年金制度是正への素晴らしい進展と言えますが、しかし今回は前述した②の学生無年金障害者③の専業主婦だった人
みを対象としており、不自由な体で厳しい生活を続けてきた無年金障害者の方たち全てが救済されるわけではありません。「拠出に基づく年金」を基本とするわ
が国の年金制度との整合性をふまえた上で、福祉的措置で対応することを含め、今後幅広い観点から検討する必要があるでしょう。
 この無年金障害者のケースのみならず、現在の年金制度は多様化する今の社会には合わず、多くの問題をその場その場で取りつくろってきたにすぎません。誰
もが信頼し、将来を託すことのできる制度を確立するために、私は広く皆様の理解を求め、提言を続けて参りたいと思います。


■11月28日 キッズサッカージャンボリー 開催
 
子どもたちに夢と希望と健康を与えられる環境をつくりたい。そんな願いを込めて準備を重ねてきた、県内最大級となる6歳児以下のサッカー大会
「キッズ(U-6)サッカージャンボリー・県南大会」。その第1回大会を11月28日(日)に青木町公園総合運動場にて開催させていただき、県南各市から
36チーム400名以上のお子さんが参加してくれました。
 試合と並行して大宮アルディージャの選手によるサッカークリニックも開催。参加者全員に認定証や記念品が授与されました。
 本大会には多くの皆様からご支援を賜りました。改めて御礼申し上げます。


■祝 浦和レッズ優勝・大宮アルディージャJ1昇格
 11月20日はサッカー王国・埼玉の記念すべき一日となりました。
 J1で首位を独走していた浦和レッズが浦和駒場スタジアムで名古屋グランパスと対戦。1?2で敗れたものの2位のガンバ大阪も敗れたため、勝ち点差7で
2試合を残してリーグ初制覇が決まりました。また、大宮サッカー場では、J2の大宮アルディージャが水戸ホーリーホックを3?1で降して11連勝。J1昇
格が確定しました。
 来季はJ1の舞台で、浦和レッズと大宮アルディージャが対戦する「さいたまダービー」が実現します。私も一サッカーファンとして、今から観戦を心待ちにしています。

第35号 「小児神経科」ってなぁに!? ~子どもの心のケア その1~


今週号から「子どもにやさしい街づくり」という新たなシリーズを立ち上げ、子どもたちの健全育成に向けての政策提言を、折にふれて読者の皆さまにお伝えして参りたいと思います。
その第1回となる今回は、「小児神経科」を取り上げ、子どもの心のケアについて考えます。

今回のテーマを取り上げるきっかけは、「週刊新藤」の読者の方からのメールによるご提案でした。とても素晴らしい提案だったので、まずその内容をご紹介させていただきます。

1.子どもの「体の病気」には治療を小児科で行っておりますが、子どもの「心の病気」に対応する診療科(小児神経科)が川口にはありません。大人と同じように、精神的に病を抱えている子どもがいることを見過ごしてはいけません。
例えば、登校拒否の児童や、幼稚園などで奇異な行動を取る子どもたちの中に、心の障害を持ち、初期的な行動と思われる動作や、言動を発見していないでしょ
うか。友人の小児科医から聞いた事ですが、彼は小児科一般診療の後に、ボランティアでそうした子どもたちと接しているそうです。子どもの奇異な行動を、大
人たちは成長すれば改善すると思い、対処していないのが現状ではないでしょうか?子どもの精神障害は、初期の治療で回復する可能性を持った病気ですし、進
行も抑制する事が可能な病気のようです。
川口49万都市に「子どもの心」の為の治療施設をつくることは、とても意味のあることではないでしょうか。大人になって事故や事件を起こす人たちの中には、少なからず子どものときの心障害が原因となっていることを想像してみて下さい。

2.川口を子どもを大事にする街にしませんか!
川口を、子どもを育てる所として、安心な街にする事をご提案いたします。小児科や上記小児神経科を、例えば駅前など通院に便利なところに開設する。どの地
域からでも駅前に向かうバスは本数が多く、お年寄りや子どもを抱えた親達にとっては便利です。初期診療を行う場所は、通い易い場所に設置し、長期治療を要
する人たちの場所は環境の整った場所にしてはいかがでしょうか。

 ・・・というものでした。

 その結果、分かったことは、

☆小児科(医)の減少が進んでいる
 大人と比べて小児の場合、患者の加入する医療保険から医療機関に支払われる診療報酬が低く(約3分の1)、小児医療は採算があわない現実があります。そ
のため病院では、小児科の廃止や、小児科医あるいは小児病棟の定員削減が、私たちの知らない所で進んでいます。

☆我が国では小児神経科という診療科目は承認されていない
 欧米では、1950年代に「児童精神科」が標ぼう診療科名として承認され、韓国でも1985年に誕生している。先進諸国の中で認められていないのは我が国だけということです。
 診療科として存在しない以上、大学医学部は専門の講座を設けません。精神科の教授がこの分野に熱意を持つ一部の大学を除き、系統だった教育・研修は行われていないのが現状です。
 その結果、専門の医師も育ちません。学会の認定医は約百人しかおらず、医師一人あたりの未成年者の人口は、他国に比べ、けた違いに多くなってしまっております。

 ...というように、我が国における小児医療及び小児神経科の現状は、誠に厳しいものでした。

現代社会は「ストレス社会」といわれ、経済が成長し、ものが豊かになるにつれさまざまなストレスが生まれています。それにより、昔では考えられないような
病気、例えば心身症やうつ病などの精神疾患が急増し、内分泌系や自律神経系、免疫系などにも影響が及ぶと同時に、中高年層の自殺の急増など深刻な社会問題
の引き金ともなっています。

これは、大人だけの問題でしょうか?実は、そのストレスによって子どもの心と体も大きなダメージを受けているのです。その証拠に、「いじめ」や「ひきこも
り」、「登校拒否」、あるいは「家庭内暴力」といった事例が増加しています。また、青少年による凶悪犯罪の多発にも大きな関連があるといえましょう。

私は、子どもたちの精神的な変調がわずかでも見られた時に、親や先生がすぐに然るべき専門医に相談し、的確な診察と治療を受けさせたいと思っています。な
ぜなら、そのことによって、大人になってから大きな精神的疾患となって症状が現れる前に、未然に防いでおけると考えるからです。

自閉症児を抱えた母親とその家族を描いたコミック 『光とともに・・・自閉症児を抱えて』
がベストセラーとなり、テレビでも今春、篠原涼子さんの主演でドラマ放映され、大きな反響を呼びました。小児神経科とは自閉症のみならず、心身症や拒食
症、過食症、あるいは虐待による心の傷、ひきこもりといった、より精神的な疾患を抱える子どもたちに、適切な診断と治療を行う診療科目のことなのです。

? つづく ?

新 藤 義 孝

第34号 ペットと共に暮らすまちづくり ~ワンワンパトロール出動~

犬や猫などのペットを飼う人は年々増えています。
ペットの果たす社会的な役割が注目され、動物たちと人とが融和した環境づくりが求められています。
今号は、我が街で動き始めたペットたちとの活動をご紹介させていただきます。

[ペット数が子どもの数を上まわる]

ペットを飼う人が増えています。私たちの街でも、朝夕の散歩や買い物中に犬を連れている人を多く見かけるようになりました。ペットフード工業会が行った全
国犬猫飼育率調査によると、平成15年に飼育されている犬猫の数が過去最高の1922万匹に達しました。15歳未満の子どもの数は1790万人であり、初
めてペットの数が子どもの数を上まわったのです。犬は5世帯に1世帯、猫は8世帯に1世帯の割合で飼われている計算になるそうです。

犬や猫を飼う理由としては、「生活に潤いを感じるから」「一緒にいると楽しいから」「家族のコミュニケーションに欠かせないから」といった回答がそれぞれ
3割強を占め(複数回答)、犬や猫に生活の潤いや心の安らぎを求めるなど精神的な効用を期待している風潮が読み取れます。ペットは単に可愛がる対象として
だけでなく、ともに暮らす仲間、コンパニオンアニマルとして考えられるようになっています。

ペットの果たす社会的役割が注目されている現在、ペットも社会の構成員のひとつと捉え、動物たちと人とが融和した環境づくりは時代の必然と言えるでしょ
う。私は、ドッグランを始めとして動物たちが私たちの社会にもっと積極的に関わりをもつ方法を模索しています。それは、動物を飼っている人・そうでない
人、動物好きな人・嫌いな人、そして動物自身、それぞれに配慮し、それぞれが無理なく融和した方法であるべきだと考えています。

私が今現在仲間たちと取り組んでいる試みをいくつかご紹介します。

「ワンワンパトロール」

ひっ
たくりや空巣、車上荒らし等の犯罪が増加している中、愛犬家の方たちが街の防犯に一役買おうと、犬の散歩を兼ねた「ワンワンパトロール」運動が各地で広
がっています。パトロール中であることを表す腕章等を身につけ、万一不審者を発見した場合には110番通報するなどの活動を行います。巡回していることを
アピールすることで、近隣住民への防犯意識を高め、犯罪が起こりにくい環境をつくるのが目的です。

特に、子どもたちの通学路の安全対策として実際に高く評価されており、また巡回しながら通りかかる人に声を掛け合うことでコミュニケーションも活発になり地域に絆も生まれてくる、といった効果もあがっています。

「川口ワンワンパトロール隊」出動! DogSkip・第1回ワンワンパトロール
私たちの街にも今年7月に、市内愛犬家の方たちにより「川口ワンワンパトロール隊(代表:喜友名博子さん)」が結成されました。11月28日(日)午前10:00には、川口元郷駅隣の芝川公園で、「川口ワンワンパトロール隊」の出動式が行われます。 私が所属するグループ・DogSkipも、パトロールに使用する腕章やジャンパー、犬につけるバンダナをデザインし、川口警察の指導の下、準備を進めています。12月12日(日)午前9:30にスキップシティ西バス停前に集合し、第1回のワンワンパトロールを実施します。
どなたでも参加できますので、ご関心のある方は、
新藤義孝事務所(048-254-6000)までお問い合わせ下さい。

「ドッグラン」

ペットの増加に伴い、社会的関心とニーズが高まっているのがドッグランです。「人と犬との良好な共存」を目指す私たちDogSkipも、当初より我が街にドッグラン設立を目標に活動を続けています。

ドッグランとは、引き綱を外して犬を運動させることのできる場所のことです。犬と人とが安心して触れあえる場所であり、人と犬とのすみわけができることから犬の苦手な人にもメリットがあります。

ドッグランの設立に向けて、現在、場所の選定や行政への折衝、署名活動など地道に活動を続けております。皆様の暖かいご理解のおかげ様で、DogSkip
による署名は現在までに4,000人を超えました。私のホームページでも署名をお受けしておりますので、ご関心のある方はぜひ一度ご覧下さい。また、近い
うちに川口駅前でも署名活動を実施する予定です。(日時決定次第、週刊新藤でご案内したいと思います)

「犬の会連絡協議会」


記のような活動を、DogSkipだけでなく地域全体に広げていきたいと考え、現在、エルザタワーのペットクラブの皆さんを初めとして、いくつかの団体と
連絡を取り合っています。地域に住む様々な方のニーズを把握し、それを活動方針に取り入れていくためにも「犬の会連絡協議会」(仮称)といったものを設立
したいと考えています。

私たちの暮らしに安らぎを与えてくれるペットたち。現在の社会環境に適した人と動物たちとのより良い共存関係を作るためにこれからも考えて参ります。

新 藤 義 孝

第33号 子どもたちの健やかな発育を願って ~キッズサッカージャンボリー開催!~

「子どもたちを元気にたくましく育てたい」 お子さんを持つ親の誰もが願うことであり、私が政治家として生涯をかけたテーマのひとつでもあります。
来る11月28日(日)、多くの皆様のご理解とご協力に支えられ、県内最大級となる6歳児以下の第1回サッカー大会、キッズサッカージャンボリーを開催させていただきます。この大会が子どもたちの健やかな発育の一助となってくれるよう心から期待しています。

[健やかな子を育む環境づくりを]

私は今、川口ふたば幼稚園の園長として毎日多くの子どもたちと接しています。園庭を元気に駆けまわる子どもたちの姿を見ると日々の疲れも吹き飛んでしまい
ます。そして同時に、この子たちがたくさんの愛情に恵まれ、豊かな人格を形成し、心身ともに健康に育ってくれるよう願わずにはいられません。

しかしながら、現代を生きる子どもたちは、私たち大人が考える以上にさまざまな悩みやストレスを抱えていると言われています。不登校やひきこもり、低年齢
化が進む少年犯罪などが大きな社会問題にもなっています。その原因は非常に多岐にわたりますが、ひとつには、現代の子どもを取り巻く環境が時代の流れの中
で大きく変化していることがあげられると思います。

都市化による核家族化と少子化、他者への無関心という風潮に伴う人との関わりの希薄化、親の過保護や過干渉または愛情不足や虐待、外遊びをする場や自然環境の減少… etc

私が子どもの頃は、子育ては地域ぐるみで行われていました。また自然環境や生き物に触れる機会もたくさんありました。地域社会の教育機能が低下している現代は、そういった子どもの発育に適した環境を、私たち大人が意識的に責任を持って用意し、整備しなければなりません。

もちろん、子育ての基盤は家庭です。しかし、将来の社会を担う子どもたちの育成は子を持つ親だけの問題ではありません。社会全体で子どもを慈しみ育んでい
く環境づくりに向けて、行政は無論のこと、学校など教育関係者、スポーツ団体、小児科医をはじめとする医療従事者、そして地域の皆さんたちが相互に連携
し、子供たちの心身の発達を支援するネットワークをつくりたい、というのが私の目指すところです。

これは私の生涯をかけてのテーマのひとつであり、もちろん一朝一夕にできることではありません。子どものための環境づくりについて様々な角度から取り組んでいき勉強を続け、今後の週刊新藤でも定期的に取り上げていくつもりです。

[キッズサッカージャンボリー開催]

週刊新藤3号・4号でもご紹介させていただきましたが、私は現在、埼玉県クラブユースサッカー連盟U-12の会長や川口市サッカー協会の顧問を務めさせて
いただいております。学生の頃には毎日のようにサッカーボールを追いかけ、そして国会議員時代にもワールドカップ開催にむけた日韓議員親善試合に参加する
など、サッカーを通じて友情の輪、そして国際交流の輪が広がっていくのを身をもって感じています。

サッカーは小さなお子さんや親御さんにも大人気のスポーツです。神経系の発達が盛んな幼児期には遊びや運動を通じて多くの動作を体験させることが重要です
が、基本的な身体動作を多数含み、集団内でのチームワークを学べるサッカーは幼児の心身の発達にも適しており、サッカー指導を取り入れている幼稚園も増え
ています。

今年初めに仲間の園長先生方と懇談する機会があり、いろいろと伺っているうちに幼児のサッカー大会というものがほとんどないという話が出てきました。子ど
もたちにサッカーという素晴らしいスポーツと出会うチャンスをつくってあげたい。そう思った私は、地域のお子さんの誰もが参加できる手づくりのサッカー大
会を開こうと考え、さっそく実行委員会の設立を検討し、この春先から準備を重ねてきたのです。

おかげ様で、県南各市の幼稚園の賛同を得、埼玉県クラブユース連盟の協力をいただき、川口市・鳩ヶ谷市の両教育委員会から後援を得て、11月28日(日)午前9:00より川口市青木町公園総合運動場(陸上競技場)にて、県内最大級となる6歳児以下のサッカー大会 「キッズ(U-6)サッカージャンボリー・県南大会」 を開催させていただくこととなりました。川口、鳩ヶ谷を始め、蕨、さいたま、草加、岩槻、上尾など県南各市から36チーム400名以上のお子さんが参加してくれます。


大会は、幼稚園やクラブチーム、地域のサッカー少年団など、この地域に住むお子さんなら誰でも参加できるよう配慮しています。勝ち負けにこだわらず、たく
さんのお友達と楽しみながら協調性や思いやりを養ってもらいたいと考え、優勝を決めずに参加チーム全てに敢闘賞を出すことにしました。また当日は、この度
J1昇格が濃厚な大宮アルディージャのプロ選手がサッカーを教えてくれるサッカークリニックも開催します。

本大会の主役はグランドを駆け巡る子どもたちです。サッカーを通じ「体を動かす喜び」を感じてもらえたら、主催者としてこれ以上望むことはありません。

子どもに夢と希望と健康を与えられる環境をつくりたい。私はいつも、子どもたちのサポーターでありたいと願っています。読者の皆様方には、ご都合がつきましたらぜひグランドにお越しいただき、子どもたちを応援していただければ幸いです。

新 藤 義 孝

第32号 新潟県中越地震~対岸の火事としないために~

10
月23日に発生した新潟県中越地震は、震度6強の強い揺れののち余震が続き、3日後には避難民が10万人を超えました。この震災によって亡くなられた方の
無念、そしてそのご遺族のご心情を察すると、私も胸が締め付けられる思いがいたします。また、家屋の倒壊や避難勧告によって、いまだに自宅に帰れず避難生
活を余儀なくされている方々のご苦労を思うと、一日も早い復旧・復興を願わずにはいられません。一方、現地に於て献身的に救援活動を続けられているボラン
ティアの方々に、心より敬意を表したいと思います。  
震災から5日後、私のところに一通のメールが届きました。その内容は...

10月28日、現地でボランティア活動をされている方が発信元となった一通のチェーンメールが、私の手元に届きました。一体何人の手を経たのでしょうか?そのメールには次のような内容が記されてありました。

10月26日15:00、私は今、小千谷市役所や小学校での救援物資の配給や炊き出しなどを手伝っています。現場はまだまだ
混乱しているし、人手も足りていません。そんな状況下で、マスコミの取材陣が50人近く現場付近を陣取っています。小千谷市役所の正面に取材の車を止めて
いるため、救援物資を運ぶトラックは遠くに止めることしかできず、ボランティアの人たちがせっせと現場に物資を運んでいますが、報道陣はそれを手伝う気配
すらありません。心労と肉体疲労が積もっている被災者の方々に、当然のようにマイクを向け、24時間カメラを回し続ける神経もさっぱり理解できません。現
地では今、「大人用の紙おむつ」が不足しています。トイレが使えなかったり、下着を替えられなかったりするので重宝しますが、こちらではもう品切れで手に
入りません。また夜の寒さが厳しいです。お年寄りは使い捨てカイロをもむことすらできないので、「貼るカイロ」が必要です。マスコミの仕事は、こういった
現状や情報を伝えることだと私は思うのですが?

このメールを読んで私は、確かに報道の義務・権利は大切ですが、例えば被災者の心情や現地の状況を配慮し、当面はマスコミが協力し合っての代表取材とした
り、数多くの取材車・中継車の中にたとえ少しでも救援物資を積んで現地に行くなどといった「知恵」や「思いやり」がなかったのかと強く感じました。と同時
に、「大人用の紙おむつ」や「貼るカイロ」が必要だという現状に対し、「私が今、議員だったらすぐに政府や自民党内の対策本部で発言し、公式な提案をし
て、本当に必要な物資の緊急手配ができたのに」という思いが込み上げ、心底悔やまれて仕方ありませんでした。
はいうものの「せめて今の私にできることをさせてもらおう」と考え、自民党の川口市議団の皆さんとともに被災者支援緊急街頭募金を10月29日にJR川口
駅東口で行いました。老若男女を問わず、本当に大勢の方が募金に協力して下さり、「困っている人、苦しんでいる人をなんとか助けてあげたい」という市民の
皆さまの熱意が私の持つ募金箱を通してヒシヒシと伝わってきました。おかげ様で2日間で111万円を超える義援金を頂戴し、さっそく市議団から川口市を通
して被災地へ届けることになりました。

天災は忘れた頃にやってくる・・・・・地震で有名な東大の寺田寅彦博士の言葉ですが、あの「阪神淡路大震災」(平成
7年1月17日)から早10年の歳月が経ち、私たちの意識から地震の恐しさが薄れつつあったことも事実です。しかし、日本は地震列島です。いつ起きてもお
かしくないといわれる東海地震や東南海・南海地震、そして首都圏における直下型大地震に対し、今回の地震を契機に我が家の防災対策を見直してみてはいかが
でしょうか?例えば大きな地震があった時にもタンスや書棚は倒れてこないか、非常用の食糧や水の蓄えがあるかどうか、家族全員で話し合い、再点検する機会
にするべきです。また、市や町会・企業などの自主防災体制の再確認と強化を急がねばなりません。

私も政治の道を歩む一人として、この「新潟県中越地震」によって犠牲になられた多くの方々に報いるためにも、災害に対する様々な情報に耳を傾けつつ防災意識を高め、国・県・市各々に強く働きかけ、皆様の防災のお役に立てるよう努力していきたいと思います。

新 藤 義 孝

《地震に備えるミニ知識》

◆災害用伝言ダイヤル171◆

災害時に安否確認等が集中し電話がつながりにくくなった場合に、家族や知人等とお互いに連絡をとれるよう設けられたもの。一般加入電話、公衆電話、また携
帯電話やPHSからも利用可能で、局番なしの「171」をダイヤルすれば、ガイダンスに従って伝言の録音や再生ができます。
(参考:http://coden.ntt.com/service/dengon/disaster.html
◆メールは便利◆
大規模災害時には通常の数十倍もの電話が殺到し、緊急電話が使用できなくなる恐れがあるため、携帯電話を含め一般電話の通話が大幅に制限されてしまいま
す。一番つながり易いのは携帯のメール、次が固定電話、最もかかりにくくなるのが携帯の音声と言われています。携帯のメールと音声を別の系統で中継し、連
絡しやすくするシステム構築が進められています。
◆iモード災害用伝言板◆
iモードサービスを利用して自分の安否情報等を登録することがができます。大規模災害が発生した場合、「iMenu」のトップに「災害用伝言板」が追加され利用可能となり、登録されたメッセージはiモードサービスまたはインターネットを利用して全国から確認が可能です。
◆乾電池タイプの携帯用充電器◆
携帯電話の電池切れを防ぐため、乾電池で使用できる携帯電話用充電器を備えておくとよいでしょう。
◆非常食・飲料水◆
被災直後、救援の手が届くまで3日程度かかる場合を覚悟しておいたほうが良いです。そのため備蓄用の食料品・飲料水を3日分は室内のわかりやすいところに保管しておくようにしましょう。
◆ラジオ◆
被災直後、外部からの情報伝達は携帯ラジオと防災無線だけになる可能性が高いです。不正確な口コミに惑わされないためにも、携帯ラジオをいつでも使える状態にして手の届くところへ置いて置きましょう。
◆懐中電灯◆
深夜に被災した場合はもちろん、昼間の被災であっても夜の暗闇に活動がしにくくなることは避けられません。懐中電灯はラジオと同様、取り出しやすい場所にいつでも使える状態で保管しておきましょう。
◆寝袋(シュラフ)◆
折畳んだ状態では非常にコンパクトになる緊急用の寝袋が市販されています。災害時に低体温症となるのを防ぎます。アルミ繊維を使用したタイプは、身体から放出される体温の90%以上を保持することができるそうです。

第31号 シリーズ「暮らしの話題」 「ニート」~働かない若者たち~


月23日夕方から震度6強の地震が連続して新潟県中越地方を中心に発生、多くの犠牲者を出し多大な被害が広がっています。この場を通しまして、犠牲になら
れた方々のご冥福を衷心よりお祈り申し上げますと共に、一日も早い負傷された方々のご快癒と地域の復旧・復興を切に祈念いたします。
さて今週号から折にふれて、現代社会で起きている身近な話題を紹介しながら、皆さんと共に考えていく、シリーズ「暮らしの話題」をスタートさせたいと思います。その第1回は「ニート」を取り上げます。

皆さん、「ニート(NEET)」という言葉をご存知ですか?ニートとは、「Not in Education,Employment orTraining」の頭文字をとったもので、「学校にも通わず、仕事もせず、職業訓練も受けない若者」をさします。

近年、身近な言葉となった「フリーター(フリーアルバイター)」は、一般には高校や大学を卒業後、臨時のアルバイトなどで収入を得ている若者を指し、
217万人存在します(2003年調査)。しかし、就労意欲が著しく低く、労働を通しての社会との接点がまったくないニートの存在は、その問題がより深刻
といえましょう。


生労働省が発表した2004年版「労働経済の分析」(労働経済白書)によると、15歳から34歳の若年層のうち、2003年のニートは52万人としていま
す。また、第一生命経済研究所が今月21日に発表したニートの数は、2000年の時点で75万1000人、2005年には87万3000人に増え、
2010年には約100万人規模に達するという予測を出しました。同研究所の試算では、国勢調査のデータを基礎に既婚者の未就業者もニートに含めて算出し
たため、厚労省が発表した数値より大きくなっています。

わが国の出生率が1.29と発表され、急速に「少子高齢化」が進むことで、将来の労働力不足が懸念されていますが、それに追い撃ちをかけるようにニートの
問題が浮上してきました。ニートが増えることで、本来なら働いて収入を得て社会保険料を払うはずの若者が、逆に生活保護の対象になりかねないという財政上
の問題が発生します。

また、例えば大学卒業後、ニートを5年間続けた場合の生涯所得は、卒業と同時に就職した人の約4分の3、ニートを10年間続けた場合には約半分になってし
まう計算が成り立ちます。このことは、税収の減少に拍車をかけると共に、労働力の減衰により経済成長率を下げる要因になり得ます。ニート問題は、近い将来
の日本の国力を左右する重大な要素をはらんでいるのです。

では、なぜ「ニート」が急増しているのでしょうか?その背景には、若者、親、学校、そして企業等、それぞれの考え方や行動に大きな隔たりがあると考えられます。

例えば、若者の考え方や行動としては、5つに分類できます。
①理想追求型?自分がしたい仕事を見つけるまで働かない。
②ヤンキー型?反社会的で享楽的。
③ひきこもり型?家に閉じこもり、社会や他者との関係を築けない。
④行き詰まり型?社会に大きな不安を感じ、自ら一歩を踏み出せない。
⑤つまづき型?職場での失敗などによって自信喪失に陥り、再就職を拒否する。

また、親の側も不況が長引くとはいえ、子どものパラサイト(居候)を許容できる豊かさを持った家庭も多く、また様々な理由によって親が仕事に対する価値観
を子どもに伝達できず、その生き方を認めざるを得ない状況もあります。さらに、詰め込み教育や点数至上主義など、ついていけない若者をつくり出してしまう
教育現場の問題であり、景気低迷の中で企業が新採用を絞り就職難となった為に、社会に出ることをあきらめてしまうという社会問題でもあります。

欧米諸国では、定職のない若者に失業手当を給付しつつ職業教育を受講させたり、ボランティアなど何らかの社会貢献を義務付ける施策を打ち出す国もあります。

わが国でも、「学生総合支援センター」が開設され、また集団生活を通して社会人としての基本的能力の修得をめざした「若者自立塾」の計画も進められています。

しかし、ニート問題の解決は、ニートになってしまった後からの支援という対症療法的施策に加え、ニート化を未然に防ぐ各分野での政策立案が重要且つ急務です。私は政治の責任を果たすべく、この問題に取り組んで参りたいと存じます。

北朝鮮拉致被害者・特定失踪者救出に向けての署名活動
皆様のご協力に心より感謝申し上げます

昨年来より、北朝鮮拉致・特定失踪者問題の解決に向け、「拉致問題を考える川口の会」「田口八重子さんを救う会」の皆さんとともに、駅前やお祭りの会場で草の根の署名活動を展開して参りました。本年10月までにご協力いただいたご署名は合計10,382人分にも達しました。ここに改めて皆様のご協力に心より御礼申し上げます。

この署名の中には、私のホームページの電子署名欄にいただいたものも多数含まれています。北海道から九州に至る日本全国の皆様、さらには週刊新藤をご愛読いただいているドイツ在住の方からもご署名と暖かい応援のメールをいただきました。

一方、川口市も自治体として独自の活動を進め19万もの署名を集め、10月13日には、これらを合せ総計20万5千人分の署名を、岡村・川口市長や市内在住の関係ご家族より、総理官邸や外務省をはじめとする政府機関に提出させていただきました。

私はこれからも、政府の北朝鮮政策に対し積極的に働きかけをしていくとともに、ご署名いただいた皆様の想いと被害者ご家族の願いをしっかりと受け止め、引き続き活動を行って参ります。

新 藤 義 孝

第30号 犯罪被害者支援制度、大きく動き出す! ? 埼玉県議会で意見書採択に ─

犯罪被害者の支援について週刊新藤25号でご紹介したところ、読者の皆さんからとても大きな反響と激励のメールをいただきました。この問題は今、大きな転機を迎えています。そこで今週号では、犯罪被害者支援を取り巻く様々な現状についてご紹介したいと思います。

[埼玉県議会で意見書採択に]

「全国犯罪被害者の会(あすの会)」
http://www.navs.jp/
の方々と県議会に要請を行う。

私にとってこの問題への取り組みは、一通の相談メールから始まりました。送り主である川口在住のAさんにお会いした私は、精神障害者にお母さんを殺害さ
れ、泣き寝入り同然となってしまったという悲痛な訴えに胸を打たれました。Aさんのような方が全国で集まって、「全国犯罪被害者の会(あすの会)」という
組織がある事も教えて頂きました。Aさんからは、埼玉県議会に請願を出したいので協力して欲しいという要望があり、私は早速行動を取り、地元の奥ノ木・田
中両県議の協力のもと、被害者の方々と大石自民党県議団長にお会いし、県議会議長宛に「犯罪被害者の権利と被害回復制度の確立を求める意見書」を提出して
参りました。

おかげ様でその意見書は埼玉県議会に付託され、審議の結果、最終日の10月13日に全会一致で採択されました。そしてこの意見書は、地方自治法第99条に則り、総理大臣・法務大臣・衆参両院議長等へ提出されたのです。

これまで埼玉県にはこのような動きがなく、関係者からはお礼の言葉をいただきました。しかし、国に意見書を出すことのみが目的ではありません。重要なことは、一刻も早く意見書の内容を実現させなければならないのです。

[議員立法への動き]

一方で国会においては、自民党のプロジェクトチームで検討されてきた「犯罪被害者基本法案」が、党内の手続きを経て、公明党との与党内調整の後、10月13日に両党の政策責任者会議において、今国会に議員立法で提出し成立を目指す方針となりました。

この基本法案の要旨は、
①被害からの早期回復を支援し社会へできるだけ早く戻れるよう、医療や福祉・住居の用意など支援策を切れ目なく総合的に実施すること。
②公判など刑事手続きに被害者がかかわる手段を確保すること。
となっています。


来の我が国の刑法においては、裁くのは司法機関、裁かれるのは加害者であり、事件の一方の当事者である被害者は蚊帳の外という状態でした。被害者やその家
族を司法の対象に取り入れた今回の基本法案により、我が国の法制度は画期的な転期を迎えたと言えます。今回の立法作業は、終始国会議員主導で行われて参り
ました。私が連絡を取らせて頂いている自民党プロジェクトチームの基本法制小委員長を務めた塩崎恭久議員は、今国会よりこの法案を所管する衆議院法務委員
長に就任しました。こういったことからも法案成立に向けての準備が整ったことがおわかりいただけると思います。

[政府の動き]

国会議員が精力的に動き出すことにより、行政側も制度改正に重い腰をあげることになりました。法務省は10月14日(与党決定の翌日です!)、犯罪被害者
への支援充実のため新たな専門職として「被害者支援官(仮称)」を平成17年度にも新設するという方針を発表しました。この支援官には、社会福祉や心理学
の専門的知識を備えた常勤の国家公務員が想定されており、全国に50か所ある保護観察所すべてに配置する方針で、保護司と協力して支援活動にあたることに
なります。


体的な役割としては、被害者に対して特に心理面での様々な助言を行うことや、加害者の出所情報や更生状態についての情報を被害者に伝えたり、被害者の気持
ちを加害者に伝達する仲介役を務めたりすること、また、事件を契機に被害者が転居を余儀なくされた際の公営住宅への入居手続きや医療支援を受ける際の手続
きについて地方自治体など関係機関との調整役となること、などが想定されています。

さらに法務省においては、加害者の更生を担ってきた保護司を犯罪被害者支援にも活用するため、保護司法の改正案を来年の通常国会に提出を予定するなど、犯罪被害者支援の体制は急速に形を整えられようとしているのです。

[私に出来ること]

以上ご報告させていただいたように、犯罪被害者の支援問題は大きな転換期を迎えています。加害者の人権問題に比べ、従来取り上げられることの少なかった被害者の支援・保護という、本来あるべき姿が加えられようとしています。

この問題の前進には、何よりも多くの皆さんが現状を知り、意識を共有し、声を上げていただくことが有効です。また、私自身、たとえ議席を持たずとも、政治活動を通じて被害者支援に取り組むことは、政治に携わる者の当然なすべきこと、と考えております。

今後私は、埼玉県議会に引き続き、県内各市議会での意見書採択に向けた活動を展開していきたいと思っています。まず始めに、今回相談を受けたAさんと私た
ちの住む川口市、また、警察の捜査怠慢を争点に現在公判中の桶川女子大生殺人事件の被害者家族が住む上尾市に働きかけをおこなっていくつもりです。

現代社会において、犯罪は年々多発化、凶悪化しています。誰もが犯罪に巻き込まれる可能性のある現在、犯罪被害者の視点からの制度を構築することは何より急務であり、私はこれこそが政治の責任と心得、引き続き精力的に活動して参ります。

新 藤 義 孝

第29号 ヨットにかけた想い ─谷さんのこと ─

いよいよ今月23日から秋の国体が始まります。私は現在埼玉県セーリング連盟会長を務めさせていただいておりますが、開催を迎えるにあたり関係者の一人として格別の感慨があります。
思い出すのは、ヨット競技にまさに命がけで取り組んできた谷さんのこと。谷岩夫・元連盟理事長の尽力なくして、県内ヨット競技の発展はあり得ませんでした...

[ヨット競技を我が埼玉で!]

埼玉県での国民体育大会の開催は実に37年ぶりのことであり、秋季大会は10月23日(土)?28日(木)の6日間、ヨットやウインドサーフィン等も含め33種目の競技が行われます。

私は現在、埼玉県セーリング連盟会長を務めさせていただいており、国体セーリング競技会の責任者でもあります。縁あって私の祖父・新藤勝衛が埼玉県ヨット
連盟(当時の名称)の会長職を長く務め、また私の父も大学時代にはヨット部に在籍し連盟のお手伝いをしておりました。そうした中で、私も若い頃から自然と
連盟の仕事に携わってきたのです。

埼玉県には海がなく、前回の埼玉国体(1967年)では、ヨット競技は茨城県の霞ヶ浦に会場を借りて実施されました。しかし、埼玉県の予算を使い他県の会
場を整備しても、その後の県内の後進育成にはつながりません。「ヨット競技を埼玉県で!」それは私たち県内ヨット関係者の悲願だったのです。

私が連盟会長に就任し本格的に取り組むようになって以来準備を重ねてきたのが、今回のさいたま国体のことでした。そして、当時私や連盟を支えて下さったのが、理事長だった谷岩夫さんでした。

[谷さんのこと]

谷さんは愛知県出身。学生・実業団時代を通じ、日本選手権で優勝、東京オリンピック候補選手となるなど、国内ヨット界の第一線で活躍されてきた方です。前
回の埼玉国体開催にあたり、ヨット連盟会長であった私の祖父がチーム強化のため谷さんを連盟理事長として招聘したのが、私どものとお付き合いの始まりでし
た。谷さんは国体終了後も、県内のヨット競技促進に尽力して下さいました。当時、県内にヨット部のある高校は皆無でしたが、市立川口高校や川口県陽高校、
浦和市立高校などの生徒に呼びかけ、休日になると自分の車で茨城や神奈川の海に連れて行き、夏には琵琶湖で合宿をさせ、国体選手を育ててきました。


の谷さんが、埼玉県の悲願である県内ヨット競技開催を何とか実現しようと、着目したのが谷中湖でした。谷中湖とは、埼玉・群馬・栃木・茨城の4県にまたが
り東京ドーム700倍もの広範な面積を持つ渡良瀬遊水地の中につくられた、巨大な人口の洪水調整池です。13年前、谷さんは、連盟会長に就任したばかりの
私を谷中湖まで連れて行き、「会長、県内でこの谷中湖以外に国体をやれる場所はありませんよ。なんとしてもここで国体をやりましょう」と、実に無邪気に熱
く語るのです。

しかし当時は多くの制約があり、国体開催どころか谷中湖にヨットを浮かべるのも困難な状況で、管理する建設省の現地事務所はにべもなく取り合ってくれませ
ん。すると谷さんは涼しい顔で、「ここは会長の政治力にお任せします」と屈託のない笑顔で、大変なことを事も無げに言い放つのでした。

私は当初、いくら広いといっても遊水地でヨットレースができるものか疑問に思っていました。しかし、谷さんの情熱に押され、建設省本省に直接折衝にあたるなど、谷さんとともに奔走したのです。


の谷さんの突然の悲報を受けたのが、忘れもしない平成6年8月13日のこと。谷中湖で国体強化合宿の指導中に、不意に船上で倒れてしまったというのです。
急ぎ私が病院に駆けつけた頃には、もう既に息を引き取っていました。62歳。大好きなヨットのために生涯を捧げた谷さんらしい最後でした。

私たちは谷さんの遺志を継ぎ、いよいよ谷中湖での国体ヨット競技実施に向け、日本ヨット協会や建設省と折衝を続けました。湖の面積や開催時期など現状の
レース規定に合わない点も少なからずありましたが、その調整に駆け回りました。一方で、ヨットの普及のために、谷中湖のある北川辺町役場に働きかけ、地元
のヨットクラブを作っていただいたり、県庁にお願いし北川辺高校にヨット部を創設するなど、この県内開催に向けて準備を進めていったのです。

[国体セーリング競技開催にあたり]

人口の貯水池を使用しての大会開催は、全国でも初めての試みです。海での大会とは異なり、言わば周辺すべてが観覧席でレースを終始間近で観戦できることに
なり、セーリング競技をより身近に感じてもらい、その普及促進に役立つものと大きな期待も寄せられています。

何よりもこの大会の実現には、谷さんと親しい日本ヨット協会や国体レース関係者のご理解とご協力に支えられてきました。埼玉のみならず、谷さんを知る全国のヨット仲間が力を貸してくれたのです。また、県庁や北川辺町役場にも大変お世話になりました。

今大会では、県内で唯一のヨット部を持つ北川辺高校の選手も出場します。これも、谷さんの想いが実を結んだ成果の一つです。

読者の皆さんには、華々しい大会の陰で、その開催実現に向け半生を捧げた人の存在を知っていただけたら、谷さんの志を受けた一人としてこんなに嬉しいことはありません。

新 藤 義 孝

第28号 川がキレイによみがえる! ー芝川・綾瀬川等浄化導水事業 ─

都市河川の汚染や悪臭への取り組みは、暮らしの大きな課題です。キレイな水の流れは、魚や鳥が水辺に戻り、うるおいのある環境を創り出します。
今回は、汚濁した川を清らな流れによみがえらせるために、地下鉄トンネルを使った河川浄化について皆様にご紹介します。

[ 芝川・綾瀬川の水質事情 ]

私たちの暮らす街を流れる芝川や綾瀬川などの都市河川は、流域に山地がないため高低差が小さく、もともと水量が少ない上に都市化が急速に進み、水環境が著
しく悪化しています。特に綾瀬川は、国土交通省が毎年実施している水質調査(BOD調査)において、15年連続ワースト1という記録を残しています。ま
た、かつて江戸との舟運路として用いられ、良質な川砂が鋳物産業を支えてきた芝川も、県内水質ワースト10位内にランクされるなど、場所によっては魚の生
息も不可能なほどの汚染された川となっています。

治水・利水を優先させてきた従来の河川整備事業に加え、環境面での整備にも重点を置いて、水辺に生息する動植物や近隣住民に配慮し、うるおいや安らぎを感じられる川づくりの必要性を強く感じます。

[ 芝川・綾瀬川等浄化導水事業 ]

今回ご紹介する「芝川・綾瀬川等浄化導水事業」とは、
地下鉄・埼玉高速鉄道線のトンネル下部に直径1.2mの導水管を通し、荒川の水を芝川・綾瀬川・伝右川・毛長川に導水するというものです。荒川のキレイな
水を各河川の上流に放水することにより、水質の改善と水量の確保が図られます。導水量は4つの河川合計でおよそ毎秒3トン。小学校のプールが2分で一杯に
なる量です。

国道122号線の新荒川大橋付近で取水された荒川の水は、地下鉄・川口元郷駅からおよそ12kmの区間、地下鉄トンネルの下層を流れ、各駅舎内施設では管理システムによりモニターでの監視が行われます。それから浄化用水は浦和美園駅付近にある分水施設により綾瀬川方向と芝川方向へと分けられ、4つの川それぞれの放流口へと流れていきます。

 この導水事業は、建設コストの軽減や工期の短縮、工事による騒音など周辺環境への影響の低減を図るため、日本で初めて地下鉄と共同で整備が行われた画期
的な試みです。総事業費は約300億円。全て国費が投入され、その予算獲得には、私も国会議員時代に多少の汗をかかせていただきました。

工事の着工には河川法上の問題もありましたが、それらもクリアし、施設は平成15年度に完成しました。現在は最終試験運転中であり、今年の冬頃より通常運
転へ移行する予定となっています。皆さんも、今年の冬には、水量が増えキレイになった芝川や綾瀬川の姿をご覧いただけると思います。

[ 緑川・堅川への取り組み ]

一方で、私たちの街には、まだ他にも環境を改善したい川が残されています。芝・前川・上青木地区を流れる緑川と堅川は、水質も悪く、冬は水量も減り、また夏になると発するその悪臭に周辺住民の皆さんも悩まされていることと思います。


は国が管理する芝川に導水事業が行われるときが、長年の地域の課題であった緑川や堅川の水質改善のチャンスと考え、国の導水事業の再活用を働きかけまし
た。この取組は、現在「芝川取水施設整備事業(事業費約19億円)」として、埼玉県が国の補助を受けて、実施しています。

芝川のさいたま市境にある八丁橋下流にポンプ場を建設し、見沼用水から六ヶ村用水経由で緑川へ、さらに堅川へと導水するこの事業は、平成17年度に完成予定となっています。

[ 河川浄化のために私たちにできること ]


度失われた自然を元の姿に取り戻すには、莫大な時間と労力、そして予算が必要になります。今回導水事業が行われるこれらの河川は、私が子どもの頃は泳げる
くらいにキレイでした。しかし現在は、流域の開発に伴い都市排水路と化し、その汚濁原因は各家庭からの生活雑排水が7割を占めていると言われています。

食用油を流さない(油を凝固剤で固めてゴミとして出すなど)こと、洗剤を適正に使用すること、ゴミなどを投棄しないこと等、私たち一人ひとりが環境への意識を高めることが何より有効です。自分の住む街の川は自分達の手で守っていきたいものです。

水面に映る光、美しい川の流れが、私たちに「心の豊かさ」をもたらす源流となりますように。私も心から願って止みません。

新 藤 義 孝

第27号 顔の見える国際貢献 〜東ティモール現地視察編


メラルドグリーンの海に浮かぶ美しい島国・東ティモール。1999年8月、インドネシアからの独立をめぐる対立の激化に国連多国籍軍が展開し、治安の回復
を図ると共に、日本の自衛隊もPKO活動に参加しました。2002年5月には独立を果たし、新しい国づくりが進められている東ティモールで、日本がどんな
役割を果たしているのか、私が撮った写真を中心に皆さんにご紹介させていただきます。

東ティモール独立の戦士シャナナ・グスマン大統領と会談。右側は旭・日本国大使。

400
年にわたるポルトガルの植民地支配の後、1975年以降インドネシアの武力による支配を受けてきた東ティモール。住民投票に伴う破壊と暴力に耐え、
2002年5月独立しました。面積は長野県程度、人口約80万。国民の85%が農村に居住、73%が電気の無い暮らしをし、一人当たりGDPが452ド
ル、アジアで最も貧しい国と位置づけられています。

本は、この国の平和構築と経済支援に大きな力を注いでいます。私は今回、一連の日本の支援がティモールの人々にどのように受け入れられているのか、また、
わが国の政府機関や邦人NGOがどのように取り組んでいるのか、自分の目で確かめるため、国会議員時代の仲間(大村議員、下地前議員)と現地を訪れたので
す。
多くの犠牲者が眠るサンタクルス墓地

ディリ:
日本の自衛隊が残していった仮設住宅を使い、JICA(日本国際協力機構)専門家派遣による解体移築の技術指導が行われていた。
グレノ:
現地知事より、雨で半壊した橋の修復の要請を受ける。道路や橋、水道など社会基盤整備への日本ODAの期待は想像以上に大きい。
道路修復予定地:
日本はこれまでに、人材育成・農業・インフラ整備の3分野に重点を置き、復興開発支援など総計1億9千万ドルを行っている。
モデル農場:
邦人NGO・ピースウインズジャパンの日本人スタッフは現地に溶け込んで、農業技術指導・農村開発に精力的に取り組んでいた。
レテフォホ・コーヒー畑:
日本NGOとJICAの協力で、コーヒー農民支援事業が行われている。コーヒーの産業化は東ティモールの未来。
生成技術指導と栽培管理の工夫により、本年は従来より30%以上高い価格でコーヒーが売れた。うわさが広がり来年の契約農家は35世帯から100世帯を超えることに。
レテフォホ・学校:
朝、外国人を見て子供たちが集まってきた。即席で集会を開く。「さて、私は何人でしょう?」子供たち「日本人だよ。」
グレノ病院:
邦人NGO・シェアが医療支援を行っているこの付近唯一の入院施設。この国の平均余命は男性55.6歳、女性59.2歳。マラリアやデング熱など感染症が多い
国連東ティモール支援団(UNMISET):
任務は国づくりの支援を行うこと。代表の長谷川氏は、私の外務政務官時代の仲間。再会を喜ぶ。
日本の支援には、日の丸とともに「From the People of Japan」のマークが活用され、現地の方々の日本への信頼にひと役かっていました。私の乗った車にも貼って、PRしました。首都ディリでの記者会見は、翌日の新聞で大きく取り上げられました。

2004年9月24日付 ティモールポスト 新藤氏「東ティモールの平和と安定を」

9月23日(木)、新藤義孝・前日本国国会議員は、大使館で行われた記者会見で「私どもは、東ティモール独立後、市民によって培われた平穏にして平和な状況や再建の実状をこの目で見て感心した」と語った。
新藤氏は二人の同僚や日本国大使とともに記者会見に臨み、次のように述べた。「日本は、世界平和を築くにあたって、東ティモールの平和な状況を保持するよ
う希望している。東ティモールにとって重要な問題は、平和・経済・教育・医療・インフラ改善である。同じアジアの国として、日本はそれらの部門で良好な状
況が実現するよう協力する用意がある。また、特に関心をもったこととして、レテフォホで東ティモールのコーヒーを味わったが、日本でも東ティモールのコー
ヒーを広めたいと感じた」
シャナナ・グスマン大統領との会見では、旧兵士の孤児や未亡人などの救済についての話題を取り上げた。日本政府は東ティモールへの援助を5年前より現在に至るまで世界に呼びかけている。

首都ディリでの記者会見は、翌日の新聞で大きく取り上げられました。

新 藤 義 孝

第25号 今こそ、犯罪被害者の救済に立ち上がろう!

「新
藤暮らしの相談室」に、ある方からメールを通じ、とてもつらく悲しいご相談を頂戴しました。私は早速、その送り主である川口市在住のAさんのご自宅に伺
い、Aさんの受けた犯罪被害とその後のさまざまなご苦労をお聞きしました。そこで今号では、犯罪の凶悪化と急増が叫ばれる現代社会において、決して他人事
ではない「犯罪被害者の救済」について、皆さまと共に考えて参りたいと思います。

県議会へ犯罪被害者の現状を率直に訴えました。
議員の方々は協力を約束してくれました。


昨年のある日の深夜、当時37,8歳の引きこもりの男が自分の母を殺害した後、隣家に侵入し、一階で寝ていたAさんのお母さんを殺害しました。ところが加
害者の男性は、精神疾患による通院歴があり、わずか2ヶ月間の「司法精神鑑定」の結果「心神喪失」、つまり精神障害のため自分の行動をコントロール出来な
い状態にあったという鑑定医の診断が下され、刑法39条の適用によって「不起訴」、つまり「罪を問われない」ことになってしまったのです。

母を一方的に殺害されたにもかかわらず、被害者のAさんは、罪を訴えられず、民事では相手が精神障害者ということで金銭補償もほとんど受けられず、泣き寝
入り同然となってしまいました。事件後は近所との接触を避け、一人で苦しんでいたそうです。そもそも弁護士を依頼しようにも、刑事事件を取り扱ってくれる
弁護士は少なく、しかも犯人が精神に障害を持っているということで、ほとんどが門前払い同然の扱いを受けてしまったそうです。困り果てた末に、さいたま市
にある「犯罪被害者相談センター」に行って、やっと弁護士を紹介してもらったという有様だったのです。

しかも、犯罪加害者には国費で国選弁護人がつくことは皆様もご存知だと思いますが、私もうかつだったのですが、犯罪被害者にはその制度がないのです。した
がって、Aさんは事件後に民事で訴えた隣家の立ち退きに係る弁護士料や裁判の費用等、すべてを自己負担しなければならなかったのです。

Aさんからその他の犯罪被害者のケースを教えていただいたのですが、
・ 一人息子を行きずりで殺された母親が、身寄りが無いため老人ホームに入居しようとしたが、保証人がおらず拒絶されてしまったこと。
・ 通り魔に暴行を加えられ植物人間になってしまったが、加害者が心神喪失状態ということで不起訴になり、被害者の高額な治療費は家族で負担していること。
など、犯罪被害者の補償や支援措置があまりに整備されていないことに私は愕然といたしました。

さらに皆様も鮮烈に記憶に残っているかと思いますが、平成11年、長男が通う同じ幼稚園の母親によって、妹の当時2歳になる幼女が殺害される事件がありま
した。加害者には懲役15年の実刑判決がおり、その後遺族が起こした民事訴訟により6100万円の賠償金を被害者家族に支払うよう判決が下りたのですが、
なんと加害者側は未だに一円の支払いも行っていないのです。

では、ここで国の統計(2002年度)を見てみましょう。加害者が逮捕されてから刑務所や少年院などで服役するための食費や医療費、光熱費、さらには国選
弁護報酬などを合計すると466億6017万2000円もの税金が加害者の為に支出されているのです。一方、犯罪被害者やその家族に対しては、医療費、介
護費、生活費、裁判の費用、弁護士料等、すべてが「自己負担」です。唯一「犯罪被害者等給付金」という制度がありますが、その総額は11億1302万円
で、加害者への国費支出と比べると、なんと約455億円もの差があるのです。

また、被害者の司法参加にしても、「刑事裁判は社会秩序維持を守るためにあり、被害者のためにあるのではない」という最高裁判所の判断(1990年)によって、被害者は捜査や裁判に一切関与できず、すべて蚊帳の外に置かれてしまっている状態です。

世界に目を向ければ、例えばフランスやドイツでは被害者の訴追権など司法への参加が認められており、また、アメリカやイギリスでは、賠償命令制度が確立されていて、被害者に損害回復の権利をしっかりと与えているのです。


回お話を伺ったAさんは、自らの苦しみを乗り越え、同じく苦しんでいる人たちと助け合って生きたい、と「全国犯罪被害者の会(あすの会)」に入会しまし
た。この会の目的は犯罪被害者のおかれている理不尽で悲惨な現実を訴え、犯罪被害者の権利、被害回復制度の確立を、国、社会に働きかけていくことです。

私がAさんから今回受けた相談は、「あすの会」は全国の都道府県議会に「わが国における犯罪被害者の権利と被害回復制度の確立のための意見書」を提出し、
東京・神奈川など主要自治体に採択されている。埼玉県議会は未だ採択されておらず、働きかけを行いたいので支援して欲しい。・・・ということだったので
す。

私は早速、仲間の川口市選出の奥ノ木信夫・田中干裕両県議会議員に協力を依頼し、二人は県議会内に話を持ち掛けてくれました。去る9月15日にはAさんや
「あすの会」関係者と一緒に、大石忠之自由民主党埼玉県議団団長にお会いし、井上直子埼玉県議会議長宛に請願書を提出してまいりました。団長さんには、現
在開会中の9月県会において是非とも採択をして欲しいとお願いをいたしました。

奥ノ木・田中両県議がすぐに協力してくれました。

国会では、自由民主党がプロジェクトチームを結成し、「犯罪被害者等基本法案(仮称)」がまとめられました。中心となった塩崎恭久基本法制小委員長や上川
陽子副委員長は、NPO税制や外務省改革提言を行った私の大変親しい仲間であり、国会内で一緒に作業出来ないことは真に残念ですが、今後連絡を密にとって
まいります。

この法案は、秋の臨時国会に議員立法で提出を目指しており、わが国の犯罪被害者の権利の確立は大きな節目を迎えております。近年のわが国の犯罪状況は、凶
悪化と低年齢化が進み、心神喪失者による通り魔殺人や覚せい剤使用による事件や外国人による犯罪、さらには幼児虐待や誘拐事件など、悪質で多様化しており
ます。私たちもいつ巻き込まれるかわからず、他人事と言ってはいられない状況だと思います。

そしてこの問題は、何よりも政治が率先して行動すべき最たるものです。今後の経過ならびに結果は「週刊新藤」を通じ皆様にご報告させていただきます。また
「新藤暮らしの相談室」がお役に立つことが出来、とても光栄です。皆様と一緒にこれからも地に足をつけて活動してまいります。

新 藤 義 孝

第24号 彩の国まごころ国体、始まる!-みんなで国体を盛り上げよう


9
月10日から14日まで「彩の国まごころ国体」の夏季大会が開催されています。水泳やサッカーなど6競技が行われ、特に水泳はわが街・川口がメイン会場に
なりました。そこで今週は、埼玉県と川口市、そして民間のボランティアが総力をあげて取り組んだ「彩の国まごころ国体」を取り上げます。

新装なった飛び込み用プール。青く澄んだ水面が静かに選手たちを待っていました。

埼玉県開催の2004年(平成16年)国民体育大会(国体)は、今回で第59回を迎えます。埼玉県としては、1967年(昭和42年)に上尾運動公園をメイン会場として実施された第22回大会以来、実に37年ぶりの開催となります。

愛称は「彩の国まごころ国体」、スローガンは「とどけ この夢 この歓声」で、二つとも県民からの一般公募によって決められました。

夏季、秋季の両大会を合わせて39競技・15行事が実施され、このたびの夏季大会では、「水泳」、「サッカー」、「ボート」、「カヌー」、「ボウリング」、「ゴルフ」の計6競技が行われます。

わが街・川口では、9月10日(金)に「川口総合文化センター・リリア」のメインホールで、秋篠宮文仁親王同妃両殿下をお迎えして、明るく、力強さに満ち
た開会式が行われました。競技の始まる前日に開会式が行われたのは、国体史上初めて。また、プール場ではなく文化ホールを会場にするのも初めての試みであ
りました。

そして、競技では水泳の全種目(競泳、飛び込み、シンクロナイズドスイミング、水球)が、青木町公園総合運動場プールと川口総合高校プール(水球のみ)で、11日より熱戦の火蓋が切られました。

特に注目すべきは、今夏、日本中を熱く盛り上げたアテネ・オリンピックで、2個の銅メダルを獲得した競泳(背泳ぎ)の森田智己選手(宮城県)や、同じく競
泳(背泳ぎ)で銅メダルを獲得した中村礼子選手(神奈川県)など、メダリスト3名を含むアテネ・オリンピック参加者13名が、水泳の各種目に参加すること
です。

また、シンクロ少年女子には、7月のジュニア世界選手権にも出場した山本麻以(武南高)と添谷はる香(川口県陽校)が埼玉を代表して出場し、優勝をねらっています。

まさに、復活した水泳ニッポンの世界トップレベルの力と技を見る絶好のチャンス。私もぜひ競技場に足を運び、この目にしっかりと焼き付けたいと思っています。

さて、今回の「彩の国まごころ国体」の最大の特色を皆さまはご存知ですか? それは、市町村の連携のみならず、県民の協力やボランティアなどによる県民総参加の「日本一簡素で心のこもった国体」をめざしていることです。

その一つの取り組みが、前述したように開会式を「リリア」で行ったことです。「リリア」を使うことによって、従来のプールサイド等に仮設していた諸施設の
設置が不要となり、大幅な経費削減が実現しました。と同時に、選手や来場者への利便性が高まり、さらには音響、照明等の諸設備が完備した「リリア」で行う
ことで、簡素な中にもより印象に残る開会式となったのです。

また、全国からの参加選手の宿泊施設として、特に川口市では地域の公民館を活用しました。市内の31の公民館に、約1,150人の競泳少年男女の選手およ
び監督が宿泊しています。さらに、身の回りのお世話係として約4,000名の市民がボランティアとして参加し、調理班や宿泊班を組織して、炊き出しなど真
心のこもった受け入れを行っているのです。公民館に宿泊することによって大幅な費用の簡素化がはかられるのはもちろんのこと、今までの国体ではけっして見
ることのできなかった、全国の代表選手と市民ひとり一人との、より深い心の交流が実現しているのです。

夏季大会は、14日(火)まで。みんなで会場へ応援に行き、国内最大のスポーツイベント=国体を大いに盛り上げようではありませんか!

【 コラム ? 東京オリンピックの聖火台レプリカ 】
今から40年前、国民に深い感動を与えてくれた東京オリンピック。あの日本中が沸いた祭典で使われた聖火台が川口でつくられたものだということを、皆さんはご存知でしょうか。
高さと直径が2.1メートル、重さが2.6トン。川口の鋳物産業の代表作といえるこの聖火台は、「武州鋳物の名工」と称された鈴木万之助さんと2代目の文
吾さん(川口市赤山在住、現在82歳)が制作したもの。初代の万之助さんは聖火台制作の途中でこの世を去ってしまい、その遺志を受け継いだ文吾さんが完成
させたものです。国立競技場に備えられたこの聖火台は、1958年のアジア競技大会に使われた後、1964年の東京オリンピック、1998年の長野冬季オ
リンピックでも使われました。
夏期国体会場となる川口市の青木町公園には、この聖火台と同寸・同型のレプリカが設置されており、このたび市民の皆さまから寄附を募り改修工事が完成しました。

新 藤 義 孝

第23号 この街に映画館(シネコン)をつくろう!

今、
わが街で一番ほしいもの=それはなんと言っても映画館ではないか!という声をよく聞きます。皆さんは「シネコン」という言葉をご存知ですか?「シネマコン
プレックス」の略称で、1つのフロアに複数のスクリーンをもつ映画館をさします。複合ビルや商業施設に併設されているため、映画ファンはもとより、買い物
客やファミリー、若者などそれぞれの層にとても喜ばれています。ところが、現在、川口・鳩ヶ谷にはシネコンどころか、映画館そのものが一つも存在しませ
ん。そこで、今週はわが街のシネコン建設に向けての、私の取り組みについてお話したいと思います。

  最近の映画館は、ゆとりのある座席で遅い時間からの上映や席の予約などが
  出来、とても便利になっています。


日、ある若手のグループと、私の政策スタッフとの合同の勉強会を行いました。「この街に欲しいもの」をテーマに、出席者全員が時間を越えて熱心な議論を行
いました。その中で、「街の文化度を高めるには」という議論がありました。住んでいる街の文化度を計るものとして、図書館や書店、喫茶店の数などに加え、
おしゃれなカフェ・バーやレストラン、コンサートホール、ショッピング・モールやブティックなどが挙げられました。

みんなで議論していくうちに、この街は魅力的な街といえるかどうか、川口に足りないものは何か?等について厳しい批判の声も出されました。改めて街を見直
してみるのにとても良い機会になりました。その中で、一番ほしいものは?という話になり、そこで出席者が異口同音に叫んだのが「映画館が欲しい」という声
でした。遠くに出かけなくても、ロードショー中の複数の映画を選んで鑑賞することのできる「シネコンがこの街に欲しい!」という声が集中しました。

    若手グループとの勉強会。街への批判も含めて未来に責任を持つ世代と
    率直な意見交換を行いました。

現在大規模な再開発が進められている「サッポロビールさいたま工場跡地開発」について、川口市、川口商工会議所双方が行った市民へのアンケート調査
(2002年9月)でも圧倒的に要望が多かったのは、映画館であり、シネコンを望む、という結果が出ております。ここでサッポロビール跡地開発事業の概要
をご説明すると、このビール工場は、大正14年より当地で操業を始め、敷地面積・約11.8ha(約3万3千坪)というサッポロビールの関東の拠点であり
ました。会社の経営方針によって工場は閉鎖されましたが、平成14年、都市整備公団(現在の「独立行政法人・都市再生機構」)のコーディネートによって跡
地の再開発が進められ、2年後の平成18年3月の街びらきが予定されています。

この街の起爆剤としたいサッポロビール跡地開発

新しい街は、商業エリアに地下1階地上5階建て、延べ床面積9万4370㎡におよぶイトーヨーカ堂と、住宅エリアに地上20階と地上15階の高層マンショ
ン2棟(総住宅戸数875戸)が建設予定です。また、公園エリア(1万㎡)には美術館も建設されます。その他、フィットネスクラブやビール園も建設され、
完成後は川口駅周辺のリリアやそごう、第1工区ビルなどと一体となって、わが街の文化度と魅力度を一気に引き上げてくれるものと、私も大いに期待していま
す。

そして勉強会に戻りますが、出席者より、このサッポロビール跡地開発では当初シネコンも検討されたが結局見送りとなったらしい、との話がありました。しか
し、この大規模開発こそシネコン実現の最大のチャンスだと私は感じました。これを逃しては次の機会は当分訪れないと思います。私は勉強会の数日後、この事
業のコーディネーターである都市再生機構の担当者を訪ね、シネコンについての可能性を追求しました。また、他の事業関係者にも打診を行ってみました。結
果、

①これまでの経過ではシネコンは商業施設の出店条件になっていない。
②事業者側は、今回の申し入れによって改めてシネコンの地元ニーズの強さを認識した。
③シネコン実現には、解決すべき都市計画法上の問題がある。
④その問題は、法解釈の許容範囲内で解決できる可能性がある。
⑤それによりシネコンを実現できる可能性がある。

ということがわかりました。回りくどい言い方で申し訳ありませんが、重要な問題ですので、読者の皆様にはご賢察いただきたいと存じます。この際、是が非で
もわが街にシネコンを実現すべく、私は最大限の努力をさせていただこうと思っております。もちろん私一人の力でどうなるものでもありません。事業者と行政
が前向きに取り組んでいくためには、地元市民の皆様がこの問題に関心を持ち、いろいろなところで声を上げていただくことが何よりこの問題の前進につながり
ます。どうぞよろしくご理解のほどお願いいたします。そして、わが街に映画館(シネコン)をつくりましょう!!

新 藤 義 孝

第22号 わが街のDNA5 わが街・歴史探訪 ~ 鳩ヶ谷編


13号より始まった「わが街のDNA」シリーズ。今号では鳩ヶ谷市の成り立ちや歩みについてお話しさせていただきます。判っているようで意外に知らないの
が、地元のことではないでしょうか? 今回改めて、鳩ヶ谷市本町にある鳩ヶ谷市立郷土資料館にお伺いし勉強させていただくと、たくさんの興味深い史実を知
ることができました。特に合併問題で揺れた川口と鳩ヶ谷の関係は、まさに ?歴史は繰り返す? そのものでした。
「温故知新」皆様と共に鳩ヶ谷の歴史を探訪してみましょう。

鳩ヶ
谷という名が最初に確認できるのは、鎌倉時代に編纂された歴史書『吾妻鏡』に、鳩谷兵衛尉重元(はとがやひょうえのじょうしげもと)が鳩谷郷地頭として登
場します。地名の由来については、「谷」は大宮台地に荒川低地の谷地が食い込むという、谷の多い地形に由来すると考えられます。しかし、「鳩」については
諸説ありますが、平安時代の『和名抄』という資料に、「武蔵国足立郡発度郷」という地名が記されており、これを「ハトゴウ」と読んだことから、後に「鳩」
という漢字をあてたという説が有力です。

やがて、鎌倉、室町の両時代は鎌倉と奥州(東北地方)を結ぶ鎌倉街道中道(なかつみち)が鳩ヶ谷を通り、交通の要衝として栄えました。江戸時代に入ると徳川将軍が日光東照宮に参拝するための街道である日光御成道の宿駅としてますます発展します。

明治に入ってからも鳩ヶ谷は、三・八市が開催されるなど埼玉県内屈指の賑わいをみせていました。『埼玉県営業便覧』によると、1902年(明治35年)頃
の街並みとして織物買継商や米穀問屋が軒を連ね、また浦和裁判所の出張所、鳩ヶ谷警察分署、そして登記所などの主要な公共施設が鳩ヶ谷に設置され、まさに
埼玉県南部の中心地だったのです。

このように、鳩ヶ谷は歴史的に交通の要所として発展してきましたが、鉄道駅の誘致、通過案を鳩ヶ谷町が拒否したことで、その後の発展に大きな影響を及ぼし
ます。1910年(明治43年)、川口に日本鉄道の「川口町駅」が誕生したことによって、その二十年後の1935年(昭和10年)には流通経済の拠点であ
る問屋街は廃れ、ただ一軒を残すのみとなってしまったのです。

1933年(昭和8年)、川口町と横曽根・青木・南平柳の3村が合併し川口市が誕生しました。当時の鳩ヶ谷町では、「川口と一緒になることが発展の道だ」
という声が高まり、芝村などと共に、1940年(昭和15年)4月1日に川口市と合併します。(この時、川口市は蕨町にも合併を申し入れていますが、拒否
されています!)しかし、戦後すぐに鳩ヶ谷町から合併時の条件不履行をタテに分離独立の声が上がり、全町民を巻き込んで分離賛成派と分離反対派の激しい住
民運動が繰り広げられてしまうのです。そして、1950年(昭和25年)6月4日には、「分離の賛否」を決める住民投票が行われました。


投票日前夜の模様を伝える埼玉新聞には、「分離騒ぎが頂点に達し、狂気の沙汰と思われた」と報道されています。住民投票は分離賛成派が勝ち、1950年
(昭和25年)11月1日に鳩ヶ谷町は川口市より分離します。しかし、その後も分離賛成派と分離反対派の確執は続き、1954年(昭和29年)の埼玉新聞
の記事には「西の飯能、東の鳩ヶ谷、ゴタゴタの歴史果てるなし。そろそろお静かになりませんか」と書かれてしまうほどでした。

1957年(昭和32年)には栗原埼玉県知事(当時)から、川口市と鳩ヶ谷町は合併するよう勧告がなされます。翌年3月、鳩ヶ谷町議会は川口市への合併を
議決しますが、11月の選挙による町会議員の改選によって反対派の議員候補が多数当選。12月の定例議会では「川口との合併取消決議」が採決されてしま
い、合併は水の泡と消えてしまいました。その後、鳩ヶ谷町は単独で1967年(昭和42年)3月1日に市制を施行、今日に至っています。

私は現在に至るこの鳩ヶ谷の歴史を学んだとき、鳩ヶ谷に住み、発展のために尽力された先人たちの地元に対する「誇り」と「愛郷心」を強く感じました。一方
で、交通の要路として発展した町が、鉄道拒否や分離独立という政治決断により変革していく歴史の重みを痛感いたしました。

鳩ヶ
谷町が川口市より分離した昭和25年当時、安行村も美園村(現在の戸塚地区の前身)も川口市では無く、鳩ヶ谷の分離で、新郷は川口市の飛び地となっていた
のです。歴史に「If(もし)」は禁句ですが、もし、鳩ヶ谷町が川口市からの離脱と同時に、安行村や美園村、新郷、そして草加村までも含めた合併を実現し
ていたなら、現在とはまったく様相を異にした街づくりができていたかもしれません。(史実では、安行村・美園村は川口市との合併を選択しています。”政争
の町”として有名であった鳩ヶ谷町に対する不安が原因のひとつと伝えられております)

2001年(平成13年)、多くの関係者の永年に亘る活動が実り「埼玉高速鉄道線(地下鉄7号線)」が開通し、鳩ヶ谷再発展のチャンスが生まれています。

川口、鳩ヶ谷、蕨の3市による合併は消えてしまいましたが、地域同士の争いは、そこに住む人たちの利益に決して結びつかないことを私たちは歴史に学ぶべき
です。そして地方分権の流れの中で、県南地域は広域行政を確立しなければ、新しい時代に取り残されることを皆様に訴えたいと思います。そのための方策を探
り、機会を創り出すことが、我々の子孫に対する歴史的責任ではないでしょうか。また、政治家として活動する私に与えられた任務と考えております。これから
の鳩ヶ谷の発展に向けて、私も皆様と心を一つにして、全力で努力して参ります。

新 藤 義 孝

第21号 アテネ・オリンピック ~聖地の祭典に平和を想う!



リンピック発祥の地・アテネにおいて、第28回オリンピック競技会アテネ大会が今月29日まで開催され、柔道の谷亮子選手や野村選手、28年ぶりの体操男
子団体の金メダルなどによって、日本全土をさらに”熱く”しています。そこで本号では、戦渦を乗り越えオリンピックに参加したアフガニスタンを通して「平
和」あるいは「国家」というものを見つめ直してみたいと思います。

日本主催のアフガニスタン国際会議のため来日したカルザイ大統領を出迎える新藤義孝(2003.2)

オリンピックの歴史とは、戦争や冷戦、人権問題やテロなどに翻弄されながらも、アスリートたちによるスポーツを通して世界平和実現に向かう歩みです。それぞれの国民が応援を通して、母国というものをより深く意識する機会として、その歴史を刻んできました。

例えば、1980年の第22回モスクワ大会では、前年の旧ソ連軍によるアフガニスタン侵攻に抗議し、カーター米大統領(当時)がオリンピックをボイコット
しました。日本も米国に同調し大会に不参加。オリンピックをめざして、日々努力を重ねてきた多くの日本人選手の夢が、無残にも砕かれてしまった大会でし
た。

一方では、そのような不当な政治権力や暴力に屈することなく、オリンピックは「平和の祭典」として、多くの足跡を残してきました。もともと古代オリンピッ
クでは、ギリシャの都市国家が戦争の最中にあっても、オリーブの冠をかぶった聖なる使者が各都市をまわり、オリンピックのための休戦を呼びかけ大会を実現
してきたのです。今回はオリンピック史上初めて聖火ランナーが五大陸のすべてを巡り、まさに聖なる使者として、国境や民族、そして思想や宗教を超えて世界
の平和を訴えました。

前回の第27回シドニー大会で、民族は同じでも戦争によって国が分断されてしまっている大韓民国と北朝鮮人民共和国が、初めて統一旗を持って一緒に入場行
進を行ないましたが、このたびのアテネ大会でも合同の入場行進が行われ、世界中に大きな感動を与えました。さらには、度重なる戦渦を乗り越えてイラクやア
フガニスタンといった国も参加し、イラクはサッカーで予選リーグ突破、アフガニスタンの選手も大健闘中です。その両国の活躍を目の当たりにすると、私自
身、万感胸に迫る思いがあります。ここでアフガニスタンに関する、私の忘れられない思い出をお話しさせていただきます。


フガニスタンは1979年からの旧ソ連軍による支配と、引き続いての内戦、そしてイスラム原理主義のタリバーンによる非文化的な圧政といった不条理な統治
を経て、2002年6月にカルザイ大統領のもと、20数年ぶりに新たな復興の道を歩み始めました。その翌年の2月に日本政府主催による国際会議「アフガニ
スタン『平和の定着』東京会議」の開催が決定し、私は来日するカルザイ大統領を、日本政府代表として羽田空港の特別機専用駐機場で出迎えたのです。

私はそれまで国会議員として、アフガニスタンへの支援に取り組んで参りました。「日本の顔の見える国際貢献」をキーワードに、復興安定のための紛争予防、
地雷・不発弾の除去、難民の定住、教育や保険・医療など、さまざまな問題に対し、国際会議などで提言を行ったのです。また、2002年12月には首都カ
ブールで開かれた「善隣友好会議」に日本政府代表として出席。カルザイ大統領との会談の中でお互いの年齢が同じということが判って以来、政治的駆け引きな
しの肝胆相照らす仲となっていたのです。

「大統領の出迎えは仲の良い新藤政務官が行くように」、との首相官邸からの指示を受け、2003年2月20日、私はアフガニスタン大使館の大使以下職員の
皆さんと一緒に、カルザイ大統領の乗る国営アリアナ航空の政府専用機の到着を待っていると、遠くにジェット機の翼が小さく見えてきました。だんだんとその
姿は大きくなり、アリアナの文字が描かれた機体が間もなく着陸というときです。大使館の人たちが皆、大粒の涙を流しながら、必死に声を詰まらせて泣いてい
るではありませんか。

実は、アフガニスタン国営のアリアナ航空が飛ぶのは、1990年代のタリバーン政権以来、十数年ぶりのことだったのです。しかも、タリバーンによって国営
機のほとんどが破壊されてしまい、一機だけ破壊を免れた故障だらけの飛行機に乗って、カルザイ大統領は国のため、国民のため、威風堂々と日本にやってきた
のでした。

一機だけ残った国営機を使用し、カルザイ大統領は来日。機体に「ARIANA AFGHAN」の文字が見える。十数年ぶりに飛ぶ国家の飛行機は平和の象徴。アフガニスタン大使(私の右隣)らは、その姿を見て涙した。

私の隣に立つ駐日アフガン大使は、「母国の旗を遠い日本の空で、十数年振りに見た感激を理解して欲しい。私達は世界中の人々にアフガンは平和になった、と
いうことを知らせたい。継ぎはぎだらけの飛行機に乗ってやってきたカルザイ大統領の勇気を称えたい。」と誇らしげに話してくれました。

私たちが母国である日本を心から意識する時はいつでしょうか?幸い私たちは今、オリンピックというスポーツを通して日本を意識することができ、そして私た
ち日本の代表選手を心から応援し、喜びと悲しみ、栄光と挫折を共感し、共有する機会を得ています。野球の長嶋茂雄日本代表監督の「for the
Flag」という言葉ではありませんが、スポーツによる世界の平和を願いつつ、日の丸のもとでスポーツマンシップに則って戦う日本の代表選手に、精一杯の
声援を送っていきたいと思っています。

新 藤 義 孝

第19・20号 ドッグラン走り出す!都市型政策の実践


内の愛犬家の方たちで結成されたボランティア団体「DogSkip」の集会に参加し、その趣旨に賛同し会員となった私は、ドッグラン設置に向けて早速行動
を開始しました。まず、設置希望地であるスキップシティとその周辺の整備状況がどうなっているか、担当する役所の方と連絡をとり、話し合いをしました。


「DogSkip」のメンバーの皆さん。ただいま、会員募集中です。
 ホームページ  http://dogskip.hp.infoseek.co.jp/

昭和33年に東京タワーが建設されるまで、高さ日本一(312m)を誇るNHKのラジオ放送塔が川口市上青木の住宅街にあったのを皆様はご存知でしょう
か。老朽化等により昭和57年に移転し、その跡地約15haを有効活用するため、県と市によって新しい街づくりが計画されました。それがスキップシティで
す。スキップシティ(SKIP City)とは、SaitamaKawaguchi Intelligent Park City
の頭文字をとった愛称であり、中小企業の振興と映像・情報産業を核とした次世代産業の集積を目指す川口市が誇る複合施設です。


れまで私もこの街づくりには少なからず関わって参りました。川口市議時代にはNHK周辺整備特別委員会で基本計画の策定に携わり、衆議院議員として建設事
業に係る国の補助金獲得や財源の確保に努めました。総務大臣政務官を拝命していたときには、NHKアーカイブスを所管しておりました。「スキップシティを
将来の周辺市との広域合併後の中心として、産業と行政の一大センター街とする」というのが私の基本的戦略です。

[A街区・約5ha]平成15年2月1日にオープンし、県立の産業技術総合センター、NHKアーカイブス(公開ライブラリ3,200本)、川口市立科学館(プラネタリウム)等があります。特に映像シアター(325席)では、大人600円・子ども300円の割安料金で名作映画が公開されており、隠れた新名所になっています。
(ホームページ http://www.skipcity.jp/
[B街区・約3.5ha]私たち「DogSkip」がドッグランの設置を望んでいる場所です。A街区の補助機能としてスタジオや人材育成機関などを建設する構想がありますが、現状では市の防災訓練などに使用されるくらいで、通常は遊休地となっています。
[C街区・約3ha]衆議院議員として地域の皆さんから運動広場として利用したいとの要請を受け、私はNHKと川口市に働きかけました。
までにNHKが所有する土地が市民団体に貸し出された例はなかったため、事務手続き上の工夫を行い、NHKの土地を市が借り受け、川口市から地元の連合町
会に運営を委託するという方法をとりました。平成13年12月より市民スポーツ広場として、ソフトボール場と、川口が発祥と言われるターゲットバードゴル
フのグランド等に活用されています。
[D街区・約3ha]NHKのB-SAT放送衛星管制センターがあり、またNHK宿舎の跡地が遊休地になっています。

【都市型政策の実践としてのドッグラン】
私は、川口・鳩ヶ谷のように都市化が進んだ地域では、都市型政策の充実が重要かつ必要と考えています。たくさんの人々が密集して居住する都市には様々な
ニーズがあり、今回のドッグランはそうした市民ニーズの多様性に応え、街の活性化と魅力を高める都市型政策として位置づけています。その基本となる観点
は、
① 巨額の予算をかけた公共事業から、できるだけ予算をかけず、既存施設や遊休地を活用し、少ない経費で大きな効果を生み出すソフト政策が効果的です。
② 社会ニーズが高いものを時間をかけずに実施することが重要です。「タイムリー」と「スピーディ」がキーワードになります。
③ 公務員の定数削減や予算縮減を進めつつ、行政サービスの質を落とさないためには、市民ボランティア団体やNPOなどの協力が必要です。国から地方へ、官から民への流れの中で、市民参加型の政策が求められています。

私は単に愛犬家の施設にとどまらず、都市型政策の実践という意味で、ドッグランが有効と考えているのです。

【ドッグラン設置に向けて】
ドッ
グランの設置は様々な波及効果が見込まれます。A街区の中央プロムナードの正面に広がるB街区にドッグランを開設することで、駐車場や飲食施設等が一体的
に活用できます。県内・東京北部も含め最大規模のものとなり、利用客は市外・県外から多数見込まれるのではないでしょうか。スキップシティの来街者を増や
し、街の知名度が上がり、ビジネスチャンスも増大されます。施設の利用率も向上し、消費活動も活性化されます。

これまでスキップシティの建設には多額の予算が投下されており、この投資に対する応分の成果を市や市民にできるだけ効果的に還元していくことが、政治家としての私の役割です。

私は市役所の担当の方々にこのドッグラン設置の戦略性を説明しつつ、さらに、
① ドッグランを常設とせず、期間を限定して試行的に設置してみる。
② 施設の整備は、ネットフェンス、水飲み場、休憩ベンチ等簡便にし、運営は「DogSkip」のボランティアの皆さんに委ねる。
③ 当面は週末のみの利用とし、利用ルールやマナーを守れるかを試験してみる。
④ 将来、B街区の事業化が決定した際には、速やかに全面的に市に協力する。

という前提で検討してはどうか、と打診をしました。

一方で、私はこの問題を仲間の市議会議員の皆さんに相談しました。市民の代表である市議会議員から行政への政策提案にしたらと持ちかけたのです。今後9月
市議会で提案できるよう、自民党市議団で協議が開始されました。さらに、この問題に以前より関心をもっていた他の議員さんたちにも声をかけていきます。

もちろんこの問題は、私たち自身が市民運動として草の根の活動を続けていくことが最も重要です。8月1日に行われた「DogSkip」の集会では、設置に
向けての署名活動を会員各々が行う申し合わせをしました。私のホームページでも電子署名欄をつくりましたので、皆様のご協力をぜひお願い申し上げます。

市民の皆さんが自らの願いを達成するために起こしたこの行動を、私はこれからも全力で支援していくとともに、この活動がスキップシティに息を吹き込み、川口市の新たな活力を生むきっかけとなればと願っています。

新 藤 義 孝

第18号 川口にドッグランの設置を!


私のホームページの「ご意見・ご要望」欄には様々なメールが届きます。先日いただいたメールにとても良い提案がございましたので、今号でご紹介させていただきたいと存じます。それは、川口に「ドッグラン」をつくっては...というものでした。


欧米ではすでに一般的になったドッグラン(アメリカの公園の風景)

「ドッグラン」という言葉を初めて耳にする方もいるかと思いますので、その意味を簡単にご説明します。「ドッグラン」とは、飼い犬をリード(紐)から離し
て自由に運動させることができる専用の広場を指し、その多くは敷地をフェンスで囲い、犬専用の遊具や日除けなどの設備を備えている場合もあります。欧米で
はすでに一般的なものとなっています。


年、日本でも公設のドッグランの整備が始まり、例えば東京都では駒沢オリンピック公園や神代植物公園内にドッグランを試行的に設置、そして都民へのアン
ケート調査が行われました。その結果、ドッグランは社会的関心やニーズが高く、多くの利用が見込める施設であることが判明し、今後、公園の規模など一定の
条件が満たされた場合、他の公園でも順次拡大していく方針が決定されています。埼玉県内では、国営の武蔵丘陵森林公園内と上福岡市営の2箇所のドッグラン
が設置されていますが、その他大規模なものは聞いたことがなく、川口・鳩ヶ谷両市においては一ヶ所もない現状です。

昨年来、消費者金融のテレビCMなどによって小型犬ブームが起き、また犬などの小動物とのふれあいが、ストレス社会に生きる現代人の心を癒す効果があると
いう「アニマルセラピー(動物介在療法)」が大いに注目され、JKC(社団法人ジャパンケンネルクラブ)には、現在146犬種約57万匹が登録されていま
す。


後は、人間と犬など身近な小動物との共生が進み、私たちの新しいライフスタイルの一翼を担っていくことになるでしょう。そのような意味からも、人と犬、犬
と犬が気遣いなく遊べ、そして飼い主同士や飼い主と住民が愛犬を通じて親交を深めていくことができるドッグランの設置は、川口・鳩ヶ谷における新しい都市
型の生活スタイルを考える上で、とても有意義で魅力あることではないでしょうか?

この「ドッグラン」に関してひとつの団体が生まれています。メールをいただいた方はこの団体に所属されており、私に状況を知らせてくれたのです。団体の名
称は「DogSkip」といい、上青木にあるスキップシティ周辺に住む愛犬家を中心に結成されました。「DogSkip」は「スキップシティにある現在未
使用の空き地を利用して、ドッグランができないものか」という思いが一つになって、今年6月に生まれたボランティア団体です。「人と犬との良好な共存」を
目指し、会員同士や地域住民との親睦をはかりつつ、地域社会への貢献を目的として、結成以来、毎週日曜日の早朝7時半にスキップシティ周辺の清掃奉仕を
行っています。私も先日の日曜日、朝の集会に参加させていただきました。

今後は、愛犬と共に老人ホーム等への訪問や、街全体の防犯対策の一環として、「防犯パトロール中」といった文字の入ったタスキなどをつけて犬の散歩をす
る、「ワンワンパトロール」の実施。そして、所期の目的である公設ドッグラン設立を川口市に働きかける署名活動を展開していく予定です。


「DogSkip」の集会に参加(スキップシティにて)

私もこの趣旨に賛同し、早速入会させていただきました。今後は会の活動に大いに協力していきたいと思っています。また、私のホームページ上に、ドッグラン
の設立に向けての電子署名の欄を設けました。ぜひ皆さまのご理解を頂き、署名のご協力をお願いします。さらに「DogSkip」のHPアドレスを掲載しま
すので、併せてご覧いただければ幸いです。

私はこの『週刊新藤』において、より良質な文化に満ち溢れた新しい都市型のライフスタイルを提案して参りたいと願っています。現在の川口・鳩ヶ谷を見渡し
た時、まだまだ欲しいもの、足りないもの、そして必要なものがたくさんあります。このドッグラン設置もその一つだと思っています。

私はこれからも、この地域に住む一政治家として、皆さまと共に草の根の市民運動を力強く展開して参ります。

新 藤 義 孝

   DogSkipホームページ  http://dogskip.hp.infoseek.co.jp/


第17号 わが街のDNA4 川口・鳩ヶ谷・蕨 3市合併の意義を問う!



在、川口・鳩ヶ谷・蕨の3市法定合併協議会で決定された「武南市」という名称に対し、市民から多数の意見が川口市に寄せられています。「名は体を表す」と
いう言葉があるように、名称にはその存在理由が込められていなければなりません。そこで、今号は、「名称」にまつわるお話を紹介しつつ、3市合併の問題点
とその意義について、皆様と一緒に考えて参りたいと思います。

私たちは埼玉県に住んでいます。そもそも埼玉は、古くは「さきたま」と呼ばれていました。「埼」という言葉は、「突き出た岸」あるいは「山の端」という意
味で、いわば「小高い丘」をさしています。一方、「玉」には、「美しいもの、優れたもの」という意味があり、「埼玉」とは、「丘のようななだらかな起伏の
続く美しく、優れた所」という意味を持っているのです。

国名や地名には必ず歴史的または地勢的な意味があり、中には時の支配者や政治に翻弄されたケースもあります。
例えば、我が国の最南端に位置する沖縄県は、かつて「琉球王国」という琉球民族による独立国であり、言葉も文化も日本本土とはまったく違うものでした。地
理的にちょうど鹿児島県と台湾の中間に位置することから、歴史的にもかつての薩摩藩と清(今の中国)の双方から常に干渉を受け、二面外交を強いられてきた
のです。そして、明治維新後、琉球は日本に取り込まれ「沖縄」となりました。沖縄という名前の由来は諸説ありますが、「海上の島が縄のように連なってい
る」という理由で、明治政府が名付けたといわれています。


かし、琉球の歴史は、太平洋戦争の敗戦後、アメリカ軍の占領中も沖縄の学校で教えられておりました。ところが、1972年の本土復帰に伴い、文部省の教科
書検定による日本本土の教科書が使用されることになり、沖縄県民にとって文化的財産ともいえる琉球の歴史は、教育の場から姿を消してしまったのです。

私は外務大臣政務官を拝命していた当時、沖縄問題を担当の一つとしておりました。在日米軍の75%が駐留する基地問題等、日米安保で揺れる沖縄県民の心情
を思い、沖縄の痛みを日本の痛みとするべく、この問題に取り組みました。県民の心の奥底に流れる民族の誇りや文化・歴史を尊重し、琉球の文化的独立を地元
の方々に提案したこともありました。

さて、この度の川口・鳩ヶ谷・蕨の3市合併に目を向けた時、3市法定合併協議会が決定した「武南市」という新名称は、どのような由来や理由をもとに選択さ
れたのでしょうか。市の名称は市民の意識が統合されたシンボルです。私たちは、その重大さをもう一度認識する必要があると思います。さらに、「今、なぜ合
併なのか?」という意義や必要性について、しっかりと考えていくべきです。現状では議員の報酬格差の是正や議員任期の特例など、合併に向けた手続き論が議
論の中心になっており、非常に残念に思われてなりません。

そもそも市町村の合併は、地域だけの問題ではないのです。現在、我が国は構造改革を進めておりますが、その中で、私が最も重要と位置付けて参りましたの
が、「小さな政府」と「地方分権」の確立です。国家は外交、防衛・安全保障、マクロ経済、そして憲法や教育、福祉といった、国の基本に関わる機能に専念し
「小さな政府」とするべきです。

一方、地方には国の権限・財源を移し、受け皿となる自治体を整備しなければなりません。その為に市町村合併が進められており、「地方分権」実現の大前提と
なっています。現在の大小約3,100ある地方自治体は、数百人の村から数十万・数百万人に及ぶ大都市まであり、国の仕事や事務を一律に請け負える状態で
ないことは、皆様も容易に想像できると思います。しかも、小さな規模にも関わらず施設や組織はある程度設けなければならず、そこに人や予算のムダや不合理
が発生しているのです。

このように、市町村合併は、地域の問題であるとともに、国政運営上の重要課題になっています。但し、合併が数合わせに終わっては意味がありません。地域の
歴史や文化・伝統を十分に加味した上で、しっかりとした合併後の戦略を持つ都市を創ることが、その地域の未来を拓くのです。

私は総務大臣政務官を拝命していた当時、政令指定都市の人口要件を従来の100万人から70万人に緩和する法律にたずさわりました。県並みの権限と財源を
持つ政令指定都市を増やしたいと考えたからです。そして、その時模索されていたこの県南地域の合併は、現在の3市に戸田市を加えた4市合併であり、その規
模は概ね70万人になっていたのです。残念ながら、戸田市の離脱により政令市としての合併は立ち消えになってしまったのですが・・・

どうか、この名称問題を契機に、川口、鳩ヶ谷、蕨の行政および市議会は3市合併の意義をもう一度見直し、市民の意見にもしっかりと耳を傾け、この合併という国策に取り組んでいただきたいと切に願うものです。

新 藤 義 孝

第16号 わが街のDNA3 わが街・歴史探訪〜川口編



13号より始まった「わが街のDNA」シリーズ。2回にわたって、文化のシンボル「リリア」を紹介してきましたが、「自分たちの住む街、川口・鳩ヶ谷の歴
史を知りたい」というご要望を皆さまから多々頂戴しました。そこで今回は、川口の成り立ちや歩みについて、その歴史をひもといて参ります。


る7月12日、川口・蕨・鳩ヶ谷の3市による合併協議会が開かれ、来年5月1日の合併後の新市の名称が、投票によって選定されました。結果は、「武南市」
22票、「川口市」19票となり、「武南市」が合併協議会としての新市名称の結論となりました。実際の合併は、今後3市の議会が各々合併の議決を行わなけ
ればならず、川口市が予定する市民アンケートや、蕨市が行う住民投票等、市民の意思の最終確認を経た上で結論が出ることになると思います。今回は市の名称
が取り沙汰されているこの機会をとらえ、そもそも「川口」の名のいわれと街の歴史についてお話させていただきたいと存じます。

かつてこの地域はほとんど海の中でした。それが、4、5千年前頃より関東ローム層でおおわれた現在の新郷・安行・神根・戸塚といった地域が陸地として姿を
現します。新郷貝塚がその証です。全国的にも有名な安行の植木は、この関東ローム層による良質な赤土の恵みによるものです。また、その後関東平野が形成さ
れ市の南部を流れる荒川から採れる良質な川砂を使い、江戸期より鋳物業が発達し、鍋、釜から軍艦のスクリュー、自動車エンジン等々時代の要求に応えてきま
した。

では、川口という地名の由来はどこからきているのでしょうか?実はもともと川口は「小川口」と呼ばれていたのです。入間川(現在の荒川)の河口に面してい
たことから名付けられました。古利根川に沿った現在の加須市付近に川口という地名があり、そこに比べて船渡し場が小さかったためといわれています。

この「小川口」という名称が初めて歴史に名を表すのは、鎌倉時代の日記文学である『とはずがたり』です。この作者は後深草上皇の寵愛を受けた二条という女性です。1289年12月に小川口に3カ月間滞在したと『とはずがたり』に記されています。

また、室町時代の作といわれ、牛若丸で有名な源義経の数奇な生涯を描いた『義経記』にも、兄・頼朝の挙兵に呼応し、奥州平泉から鎌倉に向かう義経一行が小川口で、その軍勢を整えたという記述がみえるのです。

そして、江戸時代に入り1622年、徳川2代将軍・秀忠が、家康の祀られている日光社への参拝の際、「川口」に改めさせたといわれています。日光東照宮造
営後には、鳩ヶ谷宿は日光御成道の宿駅と定められ、川口はその馬継場となりました。その後、川口宿を形成し、江戸と鳩ヶ谷宿への人馬継立の役割を担って
いったのです。とりわけ、特産品である鋳物製品や植木、薪などを、荒川や芝川を使って船で運び、大都市・江戸への物資供給を通し発展していきました。


がて明治維新を経て川口町となり、昭和8年4月1日の市制施行により川口町、横曽根村、青木村、南平柳村が合併して、人口4万5573人の川口市が産声を
あげました。昨年がちょうど市制施行70周年にあたり、11月10日「川口の日(11と10をつなげると漢字の川口になる)」に「リリア」で盛大な式典が
行われました。

昭和15年には、戦時中の強制合併により鳩ヶ谷町、神根村、新郷村、芝村が合併しましたが、昭和25年に鳩ヶ谷町で住民投票が行われ、町を二分する激論の末、鳩ヶ谷町が分離します。その後、昭和31年に安行村同35年に美園村の一部が編入され、今日に至っているのです。

川口の総面積は、55.75平方キロメートル、東京都の世田谷区とほぼ同じ大きさです。また、現在の人口は約49万人で、全国約3100の市町村のうち、
政令指定都市を除く16番目の人口を誇っています。鋳物や機械といった地場産業によって発展した街の名残りは、川口駅周辺の商業地域からいきなり準工業地
域に変わる用途地域と、マンションや住宅の中に点在する工場にその姿をとどめています。また、区画整理の進んだ芝や前川、地下鉄7号線の開通にあわせ戸塚
や安行といった市北東部で市街地整備が急ピッチで進められ、新しい住宅地が次々と生まれています。

これから先、川口市は単なる東京のベッドタウンとなるか、あるいは政令指定都市となったさいたま市の陰に隠れて埋没してしまうのか。それとも首都圏にあって歴史と伝統を基盤に自立した活力ある都市として発展していくのか、まさに川口は今、大きな分岐点を迎えています。

その大きな鍵を握るのは私たち市民一人ひとりであり、郷土川口への愛着や誇りを持った方々が増えていくことが重要です。「温故知新」(故きを温ねて新しき
を知る)をキーワードに、わが街のDNAを探っていくことが川口の未来につながっていくと、私は確信しているのです。  (続く)

新 藤 義 孝

第15号 わが街のDNA2 市民に根付いた文化活動 「(リリア)」

「わが街のDNA」シリーズの2回目として、今号では第13号でお伝えした川口の文化の発信基地である「リリア」の知られざる運営システムと、「リリア」を支える市民の文化活動の一端をご紹介したいと思います。


「リリア」開館前の5年間、管理運営担当の任にあった私は、「公共の施設としては類例のない文化の殿堂を作る以上、『仏を造って、魂を入れず』ということ
が絶対にあってはならない」と、心中期する思いがありました。つまり、川口のより良き文化の構築に貢献し、またイメージアップを図るためには、よりクォリ
ティの高い舞台芸術を市民に提供していかなければなりません。また、市民に大いに活用してもらうためには、リーズナブルな料金設定も必要不可欠な要素で
す。そのためには公共の非営利施設ではありますが、経営資本の基本である「人」、「もの」、「カネ」の確保と適切な運用システムの構築が急務であると考え
たのです。


ず、「リリア」の運営を行う「文化振興財団」を設立することにしました。「人」に関しては川口市からの職員の出向と、民間から優秀な専門家を集めて組織を
整えました。「もの=リリアの施設」に関しては、メインホール(2000人収容)は2階の張り出しを大きくするなど演劇重視の設計とし、音楽ホール
(600人収容)はスピーカーを使わないアコースティックホールとし、中央にスイス製のパイプオルガン(1億3千万円!)を設置。徹底的に音質にこだわり
ました。

そして、「カネ」の部分では、市の公共施設として宿命ともいえる壁がありました。市民のための施設ですので、赤字覚悟の利用料でなければいけません。です
から利用が多ければ多いほど赤字となり、逆に利用が少なければ建設した意味もありませんし、維持・管理費だけが使われていくことになります。また、一流の
アーティストや劇団等を招聘した場合でも、チケットを買い求めやすい価格にしなくては、一部の愛好家だけのものとなってしまうでしょう。つまり、稼働率を
上げても下げても赤字であり、またハイクォリティーなイベントを行っても赤字という現実が待っていたのです。


こで、私はあらゆる方策を考え、また可能性のあるものには体当たりでぶつかっていきました。その結果、私は「リリア」の事業を担っていく文化振興財団を支
える3つの柱を構築しました。1つは財団法人の自主財源の確保です。誌面の都合で詳しくは述べられませんが、「公有財産法」や「地方自治法」の解釈をめ
ぐって、直接、当時の大蔵省や自治省にかけあい、リリアという行政財産の使用にかかる特例を認めてもらいました。

2つ目は、「文化振興基金制度」を創設しました。「川口オートレース」の収益金の約3%を、毎年、「リリア」の文化振興財団が自由な裁量のもとで使用でき
るようにしました。現在はオートレース事業の縮小によりこの制度は使われておりませんが、開館初期の頃には、年間1億円以上の予算がリリアの文化事業のた
めに充当されておりました。エジンバラ演劇祭の招致や海外アーティストの招聘など、大型イベントの財源としたのです。

3つ目は、ボランティアの存在です。志のある市民や企業に「リリアの成功が市の発展につながり、それが自分たちに有形、無形に還元される」という理念のも
と、多くの方々にお声がけをしました。一人でも多くの方の参加があって街に文化が根づいていきます。「リリア」を基に川口のボランティアの花がひらきまし
た。今月24日、25日に行われる「川口国際文化交流フェスティバル2004」は、まさに市民の手作りのイベントとして定着しました。

また、「リリアズパッションクラブ」があります。100名近くの民間企業の有志の方が集まって主催興行をし、またリリア主催の事業を支援してくれているのです。

このような努力の積み重ねによって、「リリア」は数ある日本全国の市営のホールや劇場の中でも、「自主財源率」がトップレベルにあり、市民の税金による負担は低水準を維持しつつ、市民にはより高い文化的な還元を保ちながら、今日に至っているのです。


後に「リリア」の文化事業を支援する団体の一つである「川口四季倶楽部」をご紹介いたします。「川口四季倶楽部」は演劇を愛する市民が集まって、より質の
高いミュージカルを1人でも多くの市民に提供したいとの願いで発足しました。「リリア」開館の翌年から、「川口四季倶楽部」は年2回(大人向け、子供向け
各1回)の「劇団四季」の公演を主催し、今年で14年目を迎えています。とりわけ子供向けの公演では、3階席244席すべてを子供のために無料開放し、
「川口のすべての小学生が卒業するまでの間に、一度は本物のミュージカルにふれてもらいたい」という目的のもと、毎年、教育委員会とタイアップして市内の
小学生を招待しています。
今年7月27日(火)には、メインホールにて「桃次郎の冒険」が上演予定で、3階席は交通遺児の皆さんや市内の小・中学生に提供されることになっています。

『週刊新藤』の読者の皆さまも、お時間に余裕のある方は、ぜひお子さんと共に「リリア」に足を運んで頂ければと思っています。

文化の構築は大きな街の財産となり、豊かな精神生活を約束してくれます。物質文明は滅びても、精神的な文化は絶えることなく人々の心の中に受け継がれてい
きます。私は「リリア」を中心に、川口により良き文化が創造され、市民のひとり一人の心に常に発信され続けていくことを、心から念願してやみません。

新 藤 義 孝


第14号 参議院選挙への私の視点




月11日投票の第20回参議院通常選挙が24日に公示され、現在、各党・各候補が激しい選挙戦を展開中です。ご存知のように、日本の国会には「衆議院」と
「参議院」があり、「二院制」が採用されています。世界でも日本を含む世界主要8か国(G8)はいずれも二院制を採用していますが、なぜ日本も二院制を
とっているのでしょうか?その最大の理由として、「解散のない参議院が存在することによって、衆議院の独走を防ぎ、国政のセーフティネットの役割を果た
す」ということが挙げられます。
これは、単一民族で「熱しやすく冷めやすい」国民性を持つといわれるわが国においては、とても重要なことと私は考えています。

そのような意味で、このたびの参院選で私たちの代表を選挙、すなわち投票によって国政に送り出すことは、私たちと私たちの住む日本の安定と、より良き未来を構築する上で、非常に大切なことといえます。

日本では一般に「選挙権イコール投票権」のように思われており、実際に選挙の時に自動的に投票通知が郵送されてきます。ところがアメリカの大統領選挙で
は、選挙権を持つ有権者は選挙の前に自ら投票人登録を行うことによって投票権を得ます。投票の意志を示さない限り、投票用紙は送られてこないのです。

一方、フセイン時代のイラク大統領選挙の投票率100%という発表はどうかと思いますが、イタリアでは憲法によって「投票権の行使は、市民的義務であ
る」(第48条)と定められております。オーストラリアでは全ての有権者に投票が義務付けられており、投票を怠った場合は100ドル以下の罰金が課せられ
ているのです。

日本では選挙の度に投票率の低下が問題となっています。日本も登録制にするなど投票制度の改革が必要な時ではないでしょうか。

ここで私たちの住む埼玉県の過去の国政選挙における投票率を見てみますと、3年前の第19回参議院通常選挙では、約56.4%で全国47都道府県のうち第44位。昨年行われた第43回衆議院総選挙に至っては約54%で、全国で最下位の投票率でありました。
ちなみに川口・鳩ヶ谷の埼玉2区は約53.5%で、県平均をさらに下回る数字であり、これは非常に憂慮すべき結果でありました。

この理由を考えてみますと、まず歴史的には埼玉県が一つにまとまって行動した過去がないということがいえます。例えば今まで9人の総理大臣を生み出した山
口県のように、長州藩として明治維新といった歴史の舞台に登場したという経験が、埼玉県にはありません。また、昼夜間人口比率が日本で最も大きく、さらに
人口移動が激しく、定住性が低いという地域性も、その理由の一つに挙げられるかも知れません。

では、投票率がその選挙区=地域に、どのような影響を与えるのでしょうか?有権者の対極にある行政側から見ると、投票率の高い地域から選出された議員の意
見・要望は、数多くの住民の声として、より説得力の強いものとして受け取られます。ですから投票率の低い地域の場合は、その逆になってしまうのです。その
ような意味から、自分の住む地域の向上にとって、投票率というものが大きな影響を与えているということを、私たちひとり一人がはっきりと認識することも大
事なことだと思うのです。


在行われている参議院埼玉選挙区では、自民党、連立与党である公明党の公認候補を始め、定数3に対して6名が各党から立候補しております。小泉首相は、3
年前の総理大臣就任以来、「改革なくして成長なし」というスローガンのもと、数々の改革を進めてきました。その結果、私たちの生活を圧迫してきた経済不況
も回復の兆しが現れ始め、直近の経済成長率も約7%となり、G8サミット参加国の中で一番の経済成長率となりました。

しかし、その統計上の結果が、実際の生活に反映されているとは私には到底思えません。地域経済の活性化や、不況業種の支援等々、経済回復が私たちの生活に
実感できるよう、更なる工夫が絶対に必要です。24日の公示日に小泉総理は大宮駅前で街頭演説を行い、これからのスローガンは「改革なくして安定なし」
と、集った大観衆に強く訴えられました。この改革の方向性を決めるのは、議員が全てではありません。選挙によって示された国民の意志こそが、わが国の将来
を決めるのではないでしょうか。

日本の明るい、豊かな未来のため、投票という行為は私たちの意志を政府に伝える最も大切な手段であります。しっかりと各党・各候補の公約、政策に耳を傾
け、見極めていただき、皆さんの声をより強いものとして国政に活かすためにも、ぜひ7月11日の選挙にみんなで参加しようではありませんか。

新 藤 義 孝

第13号 わが街のDNA1 わが街のシンボル「LILIA(リリア)」

本年3月より発刊しました『週刊新藤』も、早や第13号を数えました。
今号は「わが街のDNA」という新しいシリーズをスタートさせたいと思います。私たちの街、川口・鳩ヶ谷に伝わる歴史や、くらしの情報等をご紹介して参ります。


は、政治の道に入る前は、川口市役所に11年間奉職しておりました。私が入庁したのは昭和55年ですが、その翌年就任された永瀬洋治市長の筆頭施策として
掲げられたのが、「文化の香る街づくり」でした。川口駅前の公害資源研究所跡地を国から払い下げを受け、駅周辺の街づくりを一体的に行うプロジェクトが計
画され、そこに街のシンボルとして総合文化センターの建設が決定されました。4年後、私は基本構想から施設計画、さらには経営計画やイベント・PRなど、
建物の管理運営計画を策定することになりました。これは大変重要な仕事だったのですが、市役所内に経験者がおらず、この際若手を登用しようということで、
当時、この駅周辺整備プロジェクトで街づくりを担当していた私に辞令がおりました。私の上司として担当部長がおり、あとは助役・市長という従来の市役所で
は考えられない極めてタイトな組織になりました。大きな責任と権限を与えられ、当時27歳の私が緊張するとともに、大いに張り切ったことは皆様に容易に想
像していただけると思います。

まず私が第一に考えたこと。川口市が150億円もの巨費を投入してつくる施設は、街づくりに貢献するものでなくてはなりません。この施設を単なるまちの公
会堂ではなく、クオリティの高い本格的な「劇場」と位置づけ、首都圏はもとより、全国に文化を発信する拠点にしたいと考えたのです。川口市を知らなくても
リリアに訪れる人を増やすことで、結果として川口の街の認知度を上げるという戦略を立てました。

そして、「名は体を表す」と言われるように、この建物のイメージアップのために、愛称募集を企画しました。川口市で、公共の施設に愛称を付けることも初め
てで、しかも採用された方に賞金(10万円)やペアでハワイ旅行招待などといった特典を付けて愛称を募集することなど前代未聞のことでした。結果として、
全国から3,000件にも及ぶ応募がありました。永瀬洋治市長の意向を伺ったところ、子どもから大人まで親しめて、かつ市にちなんだ名前がよいとのことで
した。


口市の花は「鉄砲ユリ(英語で「LILY」リリー)」ですので、そのユリにちなみ、「リリーシティ」、「リリープレイス」といった愛称がたくさん寄せられ
ました。しかし、「シティ」では街そのものを指すことになりますし、「プレイス」ではその場所という意味でしか捉えられません。そこで、応用言語学者や広
告デザイナーといった専門家チームと知恵をしぼり、「LILY」にラテン語で空間や集合体を意味する「IA」(イアー)を結合し、「LILIA」(リリ
ア)という名前を編み出しました。つまり、「LILIA(リリア)」とは、「ユリの花の咲いているところ=文化の花の開く場所」という意味なのです。
「IA」は、例えば「イタリア(ITALIA)」、「オーストラリア(AUSTRALIA)」など国名の語尾に使われており、リリアということばは、世界
に通用する、文法にのっとったネーミングなのです。そして、ロゴマークもユリの花を象徴的にデザインいたしました。

私は、5年間このリリアの管理運営担当として開館準備に携わり、平成2年7月7日のオープニングを見届け、8月15日に市役所を退職いたしました。周囲から推され、市議会議員の選挙に挑戦することになったのです。


成2年に開館して以来14年、リリアは当初の期待どおり、文化の発信基地として、そして市民文化活動の拠点として、活発な運営がなされています。市が当初
目論んだ川口のイメージアップや来街者を増やすといった戦略は、着々と実を結んでいます。リリア開館後の1年間の川口市への観光客数(行政統計上、まちに
仕事の用ではなく訪れた方のことをいいます)は、実に前年の2倍になりました。つまり、リリア一館で前年度一年間の全市分の来街者を集めたことになりま
す。

ぜひ皆さんも「リリア」を大いに活用していただきたいと思います。「年に一度はオーケストラを聴く」とか、「たまにはミュージカルを観る」といったよう
に、手軽にさりげなく文化・芸術を楽しめる暮らし、それがリリアの役割だと思います。また、メインホールや音楽ホール、催し広場など、大小の会場がそろっ
ていますので、お仲間とイベントを主催してみるのもいかがでしょうか。私が副園長を務める川口ふたば幼稚園では、メインホールを使って、子供たちの音楽発
表会を開いています。小さなときに大きな舞台に立つことも大切なことですから。もう一つの恒例行事が「し
んどう義孝ほほえみコンサート」です。毎回実行委員会を設け、チャリティの形式で主催しています。収益金はその時々で世界で一番必要な方に届けます。コソ
ボ難民、トルコ大地震の被害者、アフガン、イラク、北朝鮮拉致被害者支援とこの活動もずっと続けてきました。こんなふうにリリアを舞台に色とりどりの文化
の花が開いているのです。私はこうした心豊な暮らしづくりのために、これからも提案し続けて参りたいと思います。

新 藤 義 孝

第12号 一通のメールに込められた心の灯火(ともしび)

一通のメールが届きました。発信者はある支援者の方です。その方は友人から送られてきたチェーンメールに心打たれたので、ぜひ私にも伝えたかったとのこと。私もその内容に深い感銘を受けましたので、この場を通してご紹介させて頂きます。


年前にシアトルで行われたスペシャルオリンピックスでのことだ。9人の選手たちが100ヤード走のスタートラインに立っていた。選手は全員が心身に障害を
持つ人たちだ。号砲と共に全員がスタート。しかし、途中1人の少年がつまずき、2回も転んでしまい泣き出した。残る8人は少年の泣き声に気づき振り返った
瞬間、全員が一斉に向きを変えて後戻りをし始め、その少年に駆け寄った。
ランナーの一人であるダウン症の少女は少年にキスをし、「こうすると痛くなくなるわ」と言った。そして、みんなで力を合わせて少年を助け起こし、腕を組んでゴールまで一緒に走った。

その会場に居合わせた人たち全員が立ち上がり、声援がしばらく鳴り止むことはなかった。そして、その人たちは、今でもこの話を口にする。なぜなら、心の奥底で、皆が次のことを知っているからだ。

人生で大切なのは、自分だけが勝つなどという小さなことではない。たとえ、そのために自分のペースを落とし、遠回りするようなことになっても、他者のためにこの身を使うことこそが大切だということを・・・。


の文章の冒頭に出てくる「スペシャルオリンピックス」とは、知的障害者のためにスポーツを通じての自己実現をはかりつつ、より活発な社会参加を目的に、ア
メリカのケネディ元大統領の妹、ユニス・ケネディ女史らによって創設された国際的組織および、その大会名を指します。「たとえどんなに小規模でもいい、必
ずいつも世界のどこかで大会が行われている」という理想を掲げ、それゆえ「オリンピック」という言葉に複数を表す「ス」が付けられています。


スペシャルオリンピックス・埼玉選手団がメダル獲得の報告日時を訪問(04年4月)

私はこのメールを読み、教育や福祉の課題、そして日本経済の再生あるいは真の国際貢献といった山積される難問を解く大きなキーワードが、このメールに描かれた出来事の中にあると痛感いたしました。

それは、「自らの力で精一杯生きる。と同時に、いつでも、どこでもすべての人と共に、助け合って生きる」ということではないでしょうか。

年2005年には、「スペシャルオリンピックス冬季ワールドゲーム長野大会」が、12の国・地域から600名を超えるアスリートを集めて開催されます。埼
玉も選手団が結成され、川口・鳩ヶ谷からも選手が参加することになっています。私もこの大会の成功に向けて、できる限りの応援をさせてもらいたいと思って
おります。

コソボ難民キャンプにて子供たちと。世界の人たちと助け合って生きる(99年8月)

インドに古くから伝わる金言として、次の言葉があります。


のために何かをすることは、ちょうど火を分けてあげるようなものだ。ある人がたった一つの「灯火(ともしび)」を持って、幾千の人々に火を分け与えた。そ
の火を持ち帰った人々が、我が家の明かりを灯し、食事の煮炊きに使い、街全体が明るさと暖かさで包まれた。しかし、元の「灯火」は減りもせず、何も変わら
ず、ただ赤々と燃えているのである。

父とともに森を散策する母。この笑顔
をいつまでも忘れない・・・(02年8月)
今月3日、私の母
新藤たか子が病気のため他界いたしました。この場を借りまして生前のご厚情に心より感謝し、御礼申し上げます。母は幼稚園の園長として、生涯現役のまま
69歳の生涯を全うしました。母のことを語るには、どれだけの言葉を使っても語り尽せません。しかし、母が私に遺してくれた「心の灯火」(家族愛、人間
愛、そして子供たちの教育に向けた情熱・・・)は、いつまでも絶えることなく私の心の中で燃え続けています。その大切な灯火は、私の家族や母が愛した川口
ふたば幼稚園の子供たちのために、さらには政治にたずさわる者として、お一人でも多くの方の「よりよき人生行路の灯火」に使わせていただきたい、と決心しております。
新 藤 義 孝

北朝鮮による日本人拉致事件を考える!

「拉致問題を考える川口の会」「田口八重子さんを救う会」の皆さんとともに、
5月29日(土) 川口駅東西口で 「拉致被害者・特定失踪者救出に向けての
署名活動」を実施し、1200人にものぼる皆様のご署名と、暖かい励ましの言
葉をいただきました。誠にありがとうございました。

22
日に北朝鮮で行われた「日朝首脳会談」によって、日本人拉致事件や弾道ミサイルの発射実験等、日朝間に横たわる諸問題に対して解決の道筋がつけられました。しかし、日本人拉致に関して新たな情報開示等の進展がなく、被害者の家族から失望と怒りの声明が発表され、小泉首相の責任を追求するという一幕もありました。

今週は、昨年まで外務大臣政務官として北朝鮮問題を担当してきた者として、拉致問題の経緯と、今後の私たちが取り組むべき点について、お話をしたいと思います。

第1に、これまで北朝鮮側は、「拉致問題は存在しない」と断固否定し続けてきました。一方、日本でも小泉訪朝まで、「真相が判明するまで『拉致』という言葉は不適切だ」という旧社会党などの主張によって、国会では「行方不明者」という言葉が使われていました。要するに、拉致問題は公式の政治課題にはなっていなかったのです。

しかし、2002年9月17日、小泉首相の訪朝によって実現した前回の日朝首脳会談の席上、金正日総書記が日本人拉致の事実を認め、謝罪し、初めて国家レベルで解決すべき二国間の問題として取り上げられるようになったのです。

第2に、2年前までは我が国は国際社会の場に、この許せざる卑劣な人権問題をことさらアピールしてこなかったという事実があります。

綿貫衆院議長の命を受けキューバ・カストロ議長に拉致問題を説明。
カストロ議長は初めて内容を聞いたと答え、協力を約束していただいた。
(’03年3月)

小泉政権はこの方針を大転換し、国際社会に拉致問題をアピールし、各国の理解と協力を得ようとしました。私も閣僚チームの一員として、03年7月のバリ島における「アジア・欧州外相会合(ASEM)」等の国際会議で北朝鮮拉致問題を強く訴え、また、私がお会いしたキューバのカストロ議長や中国・李肇星外相を始め、韓国、英国、ドイツ等々各国の大臣や政府要人に対し、あらゆる機会を捉えて拉致問題の実態を詳細に説明し、協力を依頼して参りました。

 ASEM外装会合にて。中国・李
 外相と朝鮮半島情勢を論議
 韓国・ユン外相と。日米
 韓の連携をはかる。
 独・ミュラー外相と意見
 交換

そして、この拉致問題が正式に国際舞台で認知されたのは、昨年6月のフランスで開催された「G8エビアン・サミット」でした。事前の5月末にテキサスの牧場で行われたブッシュ大統領との日米首脳会談を皮切りに、小泉首相は拉致問題解決への協力をサミットの首脳会談で各国へ強く要請。そのことによってアメリカ、イギリス、ドイツ等のG8各国が拉致問題解決に向けての協力を表明し、初めて国際問題として世界から承認されたのでした。その後、六カ国協議(日・米・中・韓・露・北朝鮮)が開催され、国際的にミサイルや核開発問題も含めた北朝鮮に対する包括的検討がなされるに至った日本政府の外交努力を、私は理解し、評価すべきだと思います。

政治の評価は、すべて結果によって決まります。しかし、よりよき結果を得るためには、適切なアクション(行動)と必要なプロセス(過程)が重要になります。これからも政府と国民が一致結束し、強い信念と断固たる決意のもと、適切なアクションを積み重ね、しっかりとそのプロセスを踏んでいくことが何よりも大切ではないでしょうか。

次に、この拉致問題の現状と今後の私たちのあり方についてお話いたします。現在、日本政府認定の拉致被害者は15人。そのうち5人は日本に帰国できまし
た。残りの安否不明の10人については、8人がすでに死亡していると北朝鮮側は2年前の日朝首脳会談で明らかにしました。しかし、その死亡原因など矛盾に満ちた内容は、到底納得できるものではなく、今回再調査をすることで合意がなされました。

しかし、この方たち以外にも、「特定失踪者問題調査会」が公表した拉致濃厚であると認定された方が28人。拉致の疑いがある方々は197人。さらに、情報
が寄せられている方を含めると、実に400人超もいらっしゃるのです。拉致家族連絡会の皆さんの怒りと落胆は、「この問題が外交的駆け引きによって、中途
半端に幕引きがされてしまうのでは?」との、大きな心配と不安の表われではないかと思っています。

実は、川口・鳩ヶ谷地域にも5人の方が、この問題に関係しています。すでに私は関係者の皆さんからご相談を受け、昨年12月末には川口外務大臣にお会いして、特定失踪者問題の政府窓口の設置についてお願いをしました。幸いにして、本年3月より内閣府の拉致家族支援室内に担当窓口が設けられ、業務が始まっています。

ちなみに、安否不明被害者10人の中の1人である田口八重子さんも、川口市の出身です。田口さんは、昭和53年6月29日失踪、拉致され、北朝鮮側はすで
に交通事故で死亡したと発表しました。私も真相究明のため、田口さんの兄・飯塚繁雄さんや「田口八重子さんを救う会」の方たちと一緒に、昨年にはチャリティ・コンサートを開催しました。また去る5月29日には川口駅頭で、署名運動や募金活動などを行いました。

地元の皆さんと一緒に草の根レベルで国際貢献を行っていこうと始めた、毎年恒例の「ほほえみコンサート」。昨年は、JR川口駅にて田口八重子さんを救う署名活動を実施、また被害者家族の会を支援する募金活動を行った。

  → [第4回ほほえみコンサートの記事はこちら

このたび私は自身のホームページに、拉致問題や特定失踪者に関する資料を掲載しました。また、インターネットを活用し、早期解決を政府へ要望する電子署名運動も呼びかけています。ぜひとも私のホームページをご覧いただき、ご理解・ご協力をいただける方には署名をお願いします。私が責任をもって、関係者の方たちと共に、皆さまの真心とお志を政府にお届けいたします。

北朝鮮による拉致問題は、ミサイル・核開発問題と共に日本の安全保障に関わる最重要課題です。被害者のご家族の悲痛な叫びを我が心の叫びとして、私も拉致被害者や特定失踪者の救出と真相究明に向けて、全力を尽くして参りたいと思います。

新 藤 義 孝

第11号 新藤後援会事務局特別寄稿 新藤たか子さんを偲んで


新藤義孝のお母様が6月3日他界されました。8年前に慢性骨髄性白血病にかかり、3年前からは胃がんも併発。最後まで川口ふたば幼稚園の園長として幼児教育に全精力を傾け、現職のまま逝かれました。69歳でした。
新藤後援会事務局では故人たか子さんのお人柄を偲び、またその父親からの手紙に読みとれる新藤義孝に受け継がれたDNAをお伝えしたく、特別寄稿いたします。

新藤たか子さんとお父さんの栗林忠道さんのことが記事になり、日本中に大きな反響が起きたことがありました。まず始めにその文章を紹介すると、

『末
娘のたか子さんは、当時10歳だった。別れの日に門の前で泣いた。お父さんの栗林忠道さんは「たこちゃん、元気ですか」という短い遺書を硫黄島から送っ
た。「お父さんは、お家に帰って、お母さんとたこちゃんを連れて町を歩いている夢などを時々見ますが、それはなかなか出来ない事です。
▼「たこちゃん。お父さんはたこちゃんが大きくなって、お母さんの力になれる人になることばかりを思っています。からだを丈夫にし、勉強もし、お母さんの
言いつけをよく守り、お父さんに安心させるようにして下さい。戦地のお父さんより」
▼若いころ米国に留学していて国力の差をよく知っていた栗林さんは、米国との戦争に勝ち目はないと主張した。そのため主戦派の軍上層部に嫌われ、絶対に生
きて帰れない硫黄島守備隊の司令官を命じられたと言われている。
▼着任した栗林さんは、まず島の住民を戦火に巻き込まれないよう強制疎開させた。掘ればすぐ硫黄ガスの混じった蒸気がわき出る島にトンネルを掘り、要塞化
した。そして、できる限り敵を食い止めるから、早く終戦交渉を始めるよう上申した。
▼地下の洞窟に立てこもった硫黄島守備隊2万は、押し寄せる米軍上陸部隊6万、支援部隊22万を相手に歴史に残る激闘を演じて、全滅した。しかし東京のソ
ファに座った戦争指導者たちは終戦の決断ができなかった。いたずらに時が流れ、沖縄、広島、長崎と、多くの国民の命が失われた。
▼重い責任を負わされたらだれでも逃げたくなる。体が逃げなくても、心が逃げれば思考停止になる。だが栗林さんのように踏みとどまる人はいる。いっしょに
散歩した日のたこちゃんの小さな手の感触が支えだったのだろうか。責任から逃れたくなったら、栗林さんの短い文章を思い出すといい。時を超えて励ましてく
れる気がする。』

(平成12年8月9日の毎日新聞「余禄」)

この逸話は戦後も語り継がれ、じつは今までも数々のテレビ番組や書籍にまとめられています。(「玉砕総指揮官」の絵手紙・小学館文庫)この記事は読者からの反響が大きかったため続編が書かれました。

『た
こちゃんこと、たか子さんの家は東京大空襲で焼けた。疎開先の長野では姉が病死した。戦後、お母さんが、女手一つで兄妹2人の子供を育てた。たか子さん
は、早大在学中に大映の新人女優に選ばれたが、助監督と結ばれて主婦になった。大学に入りなおして、幼稚園の教員資格をとり、いまも埼玉で幼稚園長をして
いる。子息は衆議院に出た。当選2回の若手だが、「日本の顔の見える国際貢献」をライフワークと考えている。▼ある目、たか子さんは、お母さんから、夢枕
に栗林さんが現れて「いま帰ったよ」と言ったと聞かされた。ほどなく、硫黄島が、米国から返還されたという知らせが来た。不思議な夢として、一家に語り継
がれている。』
(前文省略8月21日の毎日新聞「余録」)


お父さまは、硫黄島最高司令官・栗林忠道陸軍大将
真実を主張し、最善を尽くし、責任を果たした新藤義孝の祖父栗林忠道さん。軍人でありながら、第二次世界大戦終結の歴史的功労者です。
その次女として生まれたのがたか子さん。若き日は、華やかりし映画界で女優としても活躍しながら、早稲田大学にも通いました。大映の助監督だった新藤孝衛
さんと結婚後は、日本女子大学に再入学し、幼児教育の勉強をして、昭和44年川口ふたば幼稚園を孝衛さんと共に設立。長男の義孝をはじめ3人の子育てをし
つつ、園児数600人の県下最大の幼稚園長として教育に情熱を注ぎました。

設立35年、卒園児は7千人を数え、葬儀告別式の時も、卒園後10年、20年といった若い年齢の弔問客を多く目にし、愛され尊敬された園長先生だったのだろうという思いが致しました。

たか子さんは、お父様と同じように、幼児教育の道で「真実を主張し、最善を尽くし、責任を果たして」逝きました。亡くなる10日前の5月24日には、死を
前に[お別れのあいさつ]をビデオにおさめました。告別式ではその声が会場に流され、死を惜しむ皆様の涙を誘いました。69歳の生涯が、短かったのか長
かったのか、もう少し・・・という想いは致しますが、生涯を見事に完結し、大きな功績を残して逝った新藤たか子さん。万感の思いを込めてご冥福を祈りたい
と思います。

(事務局寄稿)